『ゾウの知恵』出版に向けて。――田谷一善医学博士インタビュー

      2016/04/17

 ある日、facebookを眺めていたら、意外な投稿に出くわした。
 大学時代の恩師である田谷一善医学博士が、本を出版するためにクラウドファンディングで資金を集めている、というものだ。

たぶん今までなかった!誰もが楽しめるゾウの専門書「ゾウの知恵」出版プロジェクト

 仮タイトルは『ゾウの知恵』。ゾウと人との関わりや、現在までのゾウ研究の成果、動物園でのゾウの管理など、ゾウのいろいろな側面を網羅した本になるらしい。専門的な知見を含みつつ、かつ一般の読者にもわかりやすい内容の本を作りたいと、出資者を募集するウェブページには綴られていた。
 私は驚きを禁じ得なかった。
 確かに、私が在籍していた東京農工大学農学部獣医学科獣医生理学研究室では、ゾウの繁殖生理の研究が盛んだった。ゾウ研究の先進国であるドイツや、ゾウと関わりの深い国であるタイから留学生がやってきたり、日本の学生をそれらの国へ送り込んだりと、国際的に連携しながら、研究が進められていたことを記憶している。プロジェクトを主導していた恩師は、日本におけるゾウ研究の第一人者と言ってもいい人物だ。だから、いずれ研究内容が本になる日が来るのだろう、ゾウの本が作られるなら、間違いなく重要な役割を担うのだろう、と思ってはいた。けれど、まさかこんな形で、目の前に現れるとは。
 もちろん、同時にわくわくもしていた。私はゾウの研究に直接関わってはいなかったが、先輩方の発表などでその興味深い内容に触れてはいた。その時に感じた驚きや興奮が、広く一般の人に伝わるものができるなら素晴らしいことだ、と思ったのだ。だから、少額ではあるけれども出資し、少しでも宣伝になればと、恩師のもとを訪ね、出版に向けた思いを伺わせていただくことにした。

 インタビューの場所に指定した喫茶店に、田谷先生はかつてと変わらぬお元気な姿でやってきた。卒業後はご無沙汰であったので近況を報告し、さっそく、製作にいたる経緯を伺う。
「最初はね、東京農工大学出版会から出す予定だったんだ」
 田谷先生はそう切り出した。
 東京農工大学出版会は、東京農工大の教員、あるいは卒業生を著者として、一般向けに研究内容をまとめた書籍を発行するために作られたものだ。これまでに、『人が学ぶイヌの知恵』、『人が学ぶ昆虫の知恵』や『人が学ぶ植物の知恵』(ともに東京農工大学サイエンス新書)などの書籍を出版している。その出版会から、田谷先生にも打診が入る。
「はじめは、馬をやってくれって言われたんだけどね。やってるうちに、ゾウもいいぞ、と思い始めて」
 東京農工大の獣医生理学研究室では、1986年からゾウの繁殖生理の研究が行なわれてきた。1984年にインドのガンジー首相から贈られ、恩賜上野動物園で飼育されていた2頭の雌アジアゾウ、ダヤーとアーシャーの発情周期、排卵の有無を調べて欲しいと、当時上野動物園に勤務されていた成島悦雄獣医師から依頼があったことがきっかけだ。以来ゾウの研究は、日本中央競馬会(JRA)や社台コーポレーションと協力して行われていた馬の研究と並んで、獣医生理学研究室の大きな柱のひとつになっている。だから、せっかくならゾウについても書きたいと、田谷先生は考えたのだ。
「ただ、僕は繁殖生理のことしか書けないから、成島君にも協力してもらおうと思って声をかけて、目次なんかを作り始めたんだよ」
 ゾウの研究がはじまるきっかけとなった成島悦雄氏は、東京農工大農学部獣医学科を卒業後、恩賜上野動物園、多摩動物公園で獣医師として働き、井の頭自然文化園の園長を勤めた経歴を持つ、「動物園のゾウ」のエキスパートでもある。一般向けに動物について解説する書籍も多数執筆されており、著者にはうってつけの人物だ。
 布陣は完璧。滑り出しは上々のように思われた。
 ところが。
 予想外のできごとで、計画はいきなり頓挫することになってしまう。
 依頼主そのものが、消滅してしまうのだ。
「別の書き物の仕事で忙しくて、ちょっと後回しにしてしまっていたんだよね。それが落ち着いて、ようやく執筆にとりかかろうかということで、成島君が出版会にメールを入れたんだ。けど、ぜんぜん返答がない。おかしいな、と思ったら……」
 電話をして、やっと返ってきた返事は、なんと「もうすぐ出版会は解散するので、出せません」というものだった。
 これには田谷先生も唖然とする。
「いや、シリーズものなのにどうするんだよって」
 とはいえ、決まってしまった解散はいかんともしがたい。『ゾウの知恵』は、幻の作品になるはずだった。
 そうならなかったのは、田谷先生が諦めなかったからだ。
 東京農工大出版会がなくなるなら、他から出そうと、田谷先生は画策を始める。
「せっかくね、成島君もいろいろ用意してくれてたから、なんとか形にならないかと思って。ただ、大手のところに出してくれって持っていくのも難しいだろうと。だから、学生時代の同級生に話をしたの。こういう企画があるけど、預かってくれるところ知らないかって。そしたら、たまたま彼の息子が研究者を辞めて雑誌とか本を出版する会社を始めたって分って」
 そうして紹介されたのが、医療・科学関連の専門メディアを運営するGH株式会社社長、竹澤慎一郎氏だった。
「で、彼が会社で話をしてくれてね、うちでやってみましょうって言ってくれたんだ」
 そうして、竹澤氏から、価格を抑えより多くの人に読んでもらえるようにするための手段として、クラウドファンディングを提案され、プロジェクトが始まったというわけだ。
「すぐ、成島君にも連絡してね。ちょうど彼は、ゾウの知恵執筆の為に用意した資料を片付けちゃってるとこだったんだけど、いや、もう1回やるぞって。去年の8月頃だったかな」
 つてを辿ってでも田谷先生が出版を諦めきれなかったのには、理由がある。
「ゾウの研究はね、2012年に山本ゆきさん(岐阜大学大学院連合獣医学研究科博士課程修了。獣医学博士。現岡山大学農学部環境生命科学研究科動物機能開発学講座助教)がゾウの研究で博士論文をまとめたときに、それまでのところで獣医生理学研究室で進めていたゾウの生殖内分泌学に関する研究成果が世界のトップレベルに達していた。だから、今の時点で、最新の知見が日本から出てるんだぞってことを、紹介したいなと思ってたんだ」
 獣医生理学研究室では、ゾウの研究をはじめた当初から、重要なデータを発表してきていた。血中ステロイドホルモン濃度の経時変化を追いかけ、当時否定的な研究者の多かった「ゾウの発情周期は他の哺乳動物に比べて著しく長い」という仮説を支持する結果を出したのもそのひとつだ。
 のみならず、この10年ほどで世界的に大きく進展したゾウの繁殖生理学に関する研究の中で、非常に重要な役割を果たしてきた実績がある。
 いくつか例を挙げてみよう。
 哺乳動物では、排卵が行われる際、黄体形成ホルモン(LH)というホルモンの血中濃度が急激に上昇する、「LHサージ」という現象が起こる。このLHサージの刺激によって、そのとき卵巣でもっとも成熟している卵胞(主席卵胞)から卵子が排出(排卵)されるのだが、ゾウが変わっているのは、普通なら1回の排卵に対し1回だけ起こるLHサージが、2回起こることだ。1回目のLHサージでは、その時点でもっとも成熟している主席卵胞と数個の大きめの卵胞(次席卵胞)が、排卵を起こさないまま「閉鎖卵胞」となって、最終的に「副黄体」と呼ばれる組織に変化する。それからおよそ3週間後に2回目のLHサージが起こり、このときに、閉鎖卵胞となったものとは別の卵胞発育波で育った主席卵胞が排卵する。1回目のLHサージでできた閉鎖卵胞は、インヒビンやアクチビンと呼ばれる、卵胞の数の調節に関わるホルモンを分泌し、2度目のLHサージ時に排卵する卵胞の成熟と選別に関与していると推察している。インヒビンは、卵胞顆粒層細胞から分泌されるホルモンで、α鎖とβ鎖からなる糖蛋白質ホルモンである。主要な生理作用は脳下垂体前葉からの卵胞刺激ホルモン(FSH)の分泌を抑制的に調節して卵巣内で育つ卵胞の数を決めているホルモンである。ヒトを含む霊長類では、卵胞顆粒層細胞に加えて黄体細胞もインヒビンを分泌する。アクチビンは、インヒビβ鎖が二つ結合したホルモンで、インヒビンとは逆に脳下垂体前葉からのFSHの分泌を促進する。また、アクチビンは、LHや FSHの受容体(レセプター)を誘導する作用も併せ持っているホルモンである。ラットなどでは「これから排卵するぞ」という卵胞からインヒビンやアクチビンが大量に分泌されるのだけれど、ゾウではその役目を卵胞自身だけでなく、閉鎖卵胞や副黄体にもまかせて分業していると考えられているのだ。
 また、ゾウでは、排卵後、1個の排卵黄体と数個の副黄体が妊娠継続に必要なプロジェステロンを分泌すると考えられている。この排卵黄体と副黄体は、妊娠中はサイズが大きくなってずっと退縮することなく維持され、ホルモンを分泌し続ける。妊娠中の排卵黄体と副黄体の維持にはたらいているのは、胎盤から分泌されるプロラクチンというホルモンだ。人間の場合、胎盤自身がプロゲステロンを分泌し妊娠を維持するが、ゾウでは胎盤と排卵黄体・副黄体との相互作用で22ヶ月間の長い妊娠を維持すると考えらえているのだ。
 これらの雌ゾウの卵巣で起こっている不思議な現象のメカニズムの解明に、獣医生理学研究室は大きく貢献してきた。それは、ゾウ研究において、日本が世界をリードしていることを意味している。
「だから、日本が最先端にいる今のうちに、出版したいなと思ったんだ」
 もちろん企画趣旨から言えば、その経緯までをそのまま、書くことはできない。あくまで、最新の知見をわかりやすく、というのが目的だからだ。けれども、日本がノッている「今」だからこそ、日本から出たものを形にすることが重要だと、田谷先生は考えたのである。
「ゾウの繁殖生理学の分野においては、日本がトップを走ってんだぞっていうのを、形に残しておきたいなと。それが発端」
 そう田谷先生は語った。

 では、出版される本の内容は、どのようなものになるのだろうか。
「まあ、野生動物医学や動物繁殖学の教科書の一部分というか、そんな感じかな。『イヌの知恵』は、科学的にもしっかり書けていて専門家からの評価も高かったから、同じように、きちんとデータに基づいた、専門家の目にも耐えうるものを書きたいと思う。もちろん、日本から出たデータもしっかりと。私が生理学的なところを書いて、成島君は、動物園の歴史とか、そういうところを書いてくれて。その辺は、彼の得意分野だからね。で、あともう1人、今、恩賜上野の動物園でゾウの担当をしている人に入ってもらったの。成島くんからの推薦で。乙津和歌さんという人なんだけど、その人には、ゾウの飼育法とか、扱い方とか、そういう部分を書いてもらう予定なんだ」
 もちろん、読者には、研究者や動物園関係者だけでなく、一般の人たちも想定している。
「クラウドファンディングをしてみたら、僕たちの知らない、一般の方からも、たくさん資金が集まったのね。だから、やっぱりそういう人たちにもね、楽しんでもらえるような本にしたいと。あまり一般向けの本を書いたことがないから、どうしても堅くなっちゃうんだけど、そういうところは、竹澤さんの力を借りて、なるべくとっつきやすいようにしたいと思ってるよ」
 専門家向けに留めないのは、やはりそもそもの動機によるところが大きいようだ。
「ゾウの研究で、日本が出した成果っていうのが、もちろん学術論文としては出ているわけだけど、それはなかなか一般の人の目には触れないじゃない。だから一般の人の目が届くところに、出したいって思うんだ。日本がトップを走っているんだっていうのを。
 あとは、動物の好きな人だったらね、本を通じて、動物の多様性っていうのを、感じてもらえたらいいなとも思うよね。哺乳類と一口に言っても、海の哺乳類もいるし、陸の哺乳類もいるし、いろいろな動物がいる。それが全部合わさって哺乳類なんだってのをね、ゾウについて知ることによって、感じてもらえたらいい」
 いい本ができたら、英語やタイ語などの翻訳版を作る計画もある、とのこと。
「クラウドファンディングで、先にお金を集めちゃったのはプレッシャーだけど、出資して下さった方の期待に応えられるようないい本を作りたいね」
 そう言って、田谷先生は笑った。

 ゾウについての情報を網羅した本、ということで、『ゾウの知恵』は出版が待ち遠しいものであるわけだけれど、実は田谷先生の頭の中には「次」の構想もあるそうだ。
「今の本ができあがって、論文もすべて形になったら、今度は今までの研究ヒストリーみたいなものも書いてみたいなとも思うんだよ」
 それが、若い人の役に立つかもしれないから、と田谷先生は言う。
「これまでの研究は、国際共同研究がうまくいった形でもあるわけね。イムケさん、知ってるでしょう」
 問いかけに、私は頷く。イムケさん(Imke Leuders博士)はドイツ人のゾウ研究者で、私が学生の頃に、東京農工大学に留学していた。
「ゾウ研究の歴史の中でも、彼女の成したブレイクスルーってのは最大のものだと思うんだけど、その人とやることになったのは、まあ偶然の重なりというか。
 もともとは、師匠のトーマス(Thomas B Hildebradt博士)を日本に講演で呼んだのがはじまりなんだけど、それも、岐阜大学大学院で行った国際講演会に外国から有名人を誰か呼べないかってことになって、そのときは面識もなかったけど思い切ってトーマスさんにメール打ったんだ。講演に来てくれないかって。そしたら返信があって、来てくれるっていうんだよ。それで岐阜大学で講演してもらって、その後東京にも来てもらって、多摩動物公園と恩賜上野動物園でも講演してもらった。その時に、うちのゾウの研究成果も見てね、信頼できそうだって思ってもらえてね」
 それがきっかけとなって、後にイムケさんを日本にやりたい、という申し出がヒルデブラント博士からなされることになる。理由はインヒビンとプロラクチンの測定。その頃、ゾウのプロラクチンの測定をやっている施設が、東京農工大学と、アメリカの施設の2つしかなかったのだ。ゾウのインヒビンの測定は、東京農工大学だけだったのだ。
 その結果、彼女が持っていた雌ゾウ卵巣の継時的な画像データと、生理学研究室が明らかにしたホルモン変化のデータをリアルタイムに解析した結果、雌ゾウの繁殖メカニズムの解明に、大きな貢献を果たすことになった。
「そうやって連携することで、僕たちは大きな仕事ができた。だからね、日本の中でとどまるのではなくて、一歩踏み出してやっていけば、もっと大きなことができるっていうのをね、若い人たちには伝えられればと思うんだ」
 確かに、自身が各国を飛び回り、やる気のある学生ならば学部生のうちから海外に送り込んできた田谷先生の歩みを知れば、「研究者として生きること」の視野はぐんと広がるのではないか、と思う。
 でなくとも、先駆者の足取りを辿ることは、小説を読むようにわくわくする体験だから、若い人に訴えかける力は強いだろう。
 そちらの方も、形になることを期待したい。
 ともあれ、まず楽しみなのは『ゾウの知恵』の完成である。
 本を通じて、動物に、あるいは学問に、興味を持ってくれる人が増えてくれたらいいなと私も思う。
 今、ゾウの研究では日本はトップランナー。でも、研究者の世界も競争は苛烈だ。いつまでも、そんな状況が続くとは限らない。そもそも日本は、いつまで動物園でゾウが見られるかわからない、という状況だったりする。国内からゾウが消えれば、研究のためのサンプルを得るのも困難になってしまう。でも、せっかくここまで受け継がれてきた火が消えてしまうのはあまりにも惜しい。本を読んで関心を持った人の中から、研究者として、動物園人として、次世代の担い手が現れてくれたら。そんな期待を抱かずにはいられない。
 田谷先生によれば、出版は8月を予定しているとのこと。どうか記憶の片隅にとどめておいていただき、書店で見かけたときには、お手にとってみていただければ、と不肖の弟子としては思う。
 きっと、面白い本になるはずだから。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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