猫と涙。

   

 うちの猫たちは、膝の上に乗るのが好きである。
 私が座っていると、たいてい膝の上に乗ってくる。
 こうしてパソコンに向かっている今も、まだらが膝を占領中だ。
 床に腰を下ろすやいなや、待ってましたとばかりに猫たちが駆け寄ってくると、とても幸せな気分になる。
 自分は求められているんだとと感じられるから。
 もちろん、猫としては、カーペットもラグも敷いていない床が冷たいから、多少なりとも温かいところを(私は体温があまり高くない)求めているだけなのかもしれない。
 だから、私でなくても、誰の膝でも、あるいは電気毛布であってもいいのかもしれない。
 その可能性は非常に高い。
 それでも、膝の上でほどけていくその温かくて柔らかい物体は、私に、自分はここにいてもいいんだと、思わせてくれ、救われたような心持ちにさせてくれるのだ。
 無防備な姿を見ていると、張り詰めていたこちらの心も、同じようにゆるゆるとほどけていく。
 まさしく、癒やし、と呼ぶのがふさわしいひとときである。
 お恥ずかしい話であるが、そうして猫を抱きながら、しばしば私は涙を流す。
 心がほどけていくにつれて、その内側に無意識に押し込んでいたものが、抑えきれずにあふれ出てくるのだ。
 ときに嗚咽さえ漏らしながら、私は猫を抱きしめる。
 そういうときには、意外にも、猫はされるがままになってくれるものである。
 多少は、飼い主のことを思う気持ちが彼女らにもあるのかもしれない。
 されるがままの猫を抱きながらびょびょお泣き、泣ききったあとには、いくぶん、胸の内が軽くなっている。また明日からも頑張ろうという気持ちが、からっぽになった胸の内に、ころん、と転がっていることに気がつく。まるですべての災いが飛び出した後のパンドラの箱に、最後に残されていた希望みたいに。そのときのすっきりとした気分は、たとえばしょうもないバラエティを観てげらげら笑ったあとに感じるそれとは、比べものにならないものだ。
 ほんとうに心の澱が流れていくとき、癒されるとき、人は笑うのではなくて泣くのだということに、私は猫を飼うようになってからはじめて気がついた。
 言い換えれば、少なくとも「子ども時代」が終わってからこの方、私は本気で泣いたことがなかった、ということだ。
 ちゃらんぽらんであることには自覚的で、ストレスもそれほど溜めない方だと思っていたけれど、実は知らず知らずのうちに、いろいろなものを押し殺してきたことを猫たちは私に教えてくれた。
 彼女らを飼うことになったのはまったくの偶然というか、突発的な、ほとんど事故みたいなできごとだったけれど、出会えてよかったと、心から思う。
 猫たちと出会わなければ私は、負の感情を溜め込んで、心を酸化させてしまっていたかもれない。
 猫はいいものだ。
 たとえ彼女らが、こちらを玄関マットくらいにしか考えていないのだとしても。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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