活字依存症。

   

 活字中毒、というビョーキがある。
 常に活字に触れていないと精神が安定せず、活字がなくなると不安や抑うつやせん妄などに襲われるというビョーキである。
 意味合いからすれば、正しくは活字依存症と言うべきなのだろうが、アルコール依存症が「アル中」と呼ばれるのと同じで、一般的には「中毒」という言葉が使われている。
 罹患者は、たとえば缶詰の裏のラベルのようなものまで、丹念に読み込んでしまったりする。
 具体的な症例を目にしたければ、たとえばインターネットを覗いてみるとよい。
 ここには、ひと目でそれとわかる患者がうようよ蠢いている。

私は重度の「活字中毒」であるが、これは必ずしも「面白い本が読みたい」ということを意味していない。
字が書いてあれば何でもいいのである。
現に、電車の中で本を読み終えてしまうと、私は巻末のカタログを熟読し、奥付を読み、中吊り広告を読み、窓に貼ってある広告(「わきがのことはオレにまかせろ!」などというのを)を熟視する。
これはどう考えても「読書」ではない。
私はおそらく「字を読む」ことそれ自体をはげしく欲望しているのである。
橋本麻里さんも子ども時代から強度の活字中毒で、家中の本を読みあさり、ベッドの中でも読み続けたせいでたちまち近視になったそうである。
「慌てた両親は読書禁止令を出したが、海苔の佃煮の瓶に貼られたラベルを、何度も舐めるように読み返している娘の姿に哀れを催したのか、禁止令はいつの間にかうやむやになってしまった。佃煮のラベルも、読み込めばそれはそれで結構面白い」(『街場の現代思想』の解説から)
そう、これである。

朝の読書(内田樹の研究室)

 そう、これである。
 治療方法は今のところ確立されていない。アルコール依存症やニコチン依存症ならば、いっさい近寄らないようにすることで寛解が見込めるのであろうが、社会生活を営んでいる以上活字を断つことはできないから(マイナンバーカードを捨てる勇気はない)、その方法は使えない。発症してしまった患者は、ひたすらに活字を読んで、精神症状の発現を抑えながら生きていくことを余儀なくされる。活字を読むためには時間がかかるし、まとまった活字を手に入れるためには金もかかる。大変に時間的、金銭的負担の大きいビョーキである。近視、眼精疲労、頭痛、肩凝り、睡眠障害などの続発症も、自己責任で管理しなければならない。そうでなければ仕事に使える時間を読書に費やさなければならないのだから、生涯賃金にも大きく影響する。
 なんともおそろしい、不治の病なのである。
 かくいう私も、実はこのビョーキに罹患している。
 活字から離れることができない。
 週末ごとに本屋に通い、書棚に収まりきらない本を部屋に溢れさせる生活を、もう20年以上も送っている。
 いつも必要以上に本を買ってしまうのは、まだ読んでいない本が常に手元にないと、不安に駆られてしまうからだ。積ん読が溜まっていても、「次に本屋に来るまでに、それらをぜんぶ読みきってしまったらどうしよう」と心配になるので、やはり時間があると本屋に行って、新しい本を買ってしまう。1週間分余裕を持って買う、なんて、まるで震災に備えて食料を備蓄しているみたいだ。
 ただ読書好きだというのとは、明らかに違っていると思う。
 なんであれ、「それなしでは正常に生活できない」というのはやっぱりまともではない。
 けれど、今までその理由について、あまり深く考えたことはなかった。
 なぜなら、少なくとも今の日本では、たくさん本を読むことは「よいこと」だとされているからだ。読書術を指南する本がたくさん出版されていることからもわかるように、みんな、効率よく本を読む方法を知りたがっているし、「活字離れ」は問題視されている。本に囚われていることは、ぜんぜん悪いことではなく、現代社会においては、むしろ褒められるべきこととさえ言える。
 だから、明らかに病的であるにも関わらず、その根っこの部分からは目をそらし続けてきた。
 本が好きだからだ、と自分に言い聞かせてきたと言ってもいい。
 でも、今日、いつものように本屋で本を渉猟しているときに、私はふっと、その問いにとらわれてしまった。
 昨日も本を買ったばかりだというのに、今日も本屋に来てしまったな。
 本棚の前で、自嘲気味にそう思った瞬間に、その問いが頭から離れなくなってしまったのだ。
 なんで、俺はこんなことをしているんだろう?
 抜き取った文庫本を手に持ったまま、私は身動きが取れなくなった。答えを出さなければ離さないぞと、本棚から伸びた手が私の手首を掴んでいるみたいに。
 しかたなく、私は考えた。
 よくよく思い返してみれば、「常に本がないと不安になる」という表現には、いささかの嘘が含まれていることがわかる。
 屋久島に縄文杉を見に行ったときでさえ、リュックの中に文庫本を忍ばせずにはおれなかった私だが、いつでもそうだったわけではない。
 たとえば、当時付き合っていた女の子と一緒に西表島にでかけたときには、本のことなど、露ほども頭に浮かばなかった。3日間、まるっきり本を読まずに過ごしたけれど、なんの痛痒も感じなかった。
 そもそも本の貸し借りによって深まっていった関係だったけれども、付き合っている間は、あまり本を読まなかったような気がする。
 当然と言えば当然なのかもしれないけれど、「誰かといるとき」には、活字を求める気持ちは薄れているのだ。
 逆に、読書欲が亢進した時期を思い返してみると、こちらもだいたい、条件が共通していることに気がつく。
 高校や大学に入学したばかりのとき。浪人していたとき。新卒で働き始めたとき。それから、今。
 新しい環境に移って、それまでの人間関係がリセットされて、不安と、寂しさがないまぜになっているようなときに、いつにも増して、私は本を読んでいる。
 導き出される結論はシンプルだった。
 私はたぶん、寂しさを、あるいは1人でいる空白を埋めるために本を読んでいるのだ。
 だから、そんな空白が存在しないときには本なんて必要なくなるし、空白が強く意識されるときには、本を読まずにはいられなくなる。
 読むべき本がなくなることを必要以上に恐れているのは、その空白に向き合うことが怖いからなのだ。
 私は人付き合いがあまり得意ではなく、友達も少なく、ほとんどの時間を、1人で過ごしている。
 結果として、言うなれば本に「逃避」する時間が多くなり、その果てに「活字中毒」になってしまったのではないかと思われた。
 なんということだろうか。
 私は愕然とした。
 もう少しで、手にしていた本を取り落とすところだった。
 読書そのものが嫌いなわけではなく、好きだからこそそこに逃げたのだろうけれども、病態としては、アルコール依存症とほとんど変わらないではないか。
 内田さんや橋本さんの言う「活字中毒」とは違って、これはちょっと、洒落にならない。
 ほんものの依存症だ。
 なんらかの治療が必要なことは明白だった。
 今から、社交的な性格に自分を改造する?
 今更?
 少なくとも、もう少し、社会的なつながりを維持する努力をするべきではありそうだった。
 幸い、今の仕事は、つながりが多ければ多いほど得をするものではある。それをバネに、努力することはできるかもしれない。
 しかたがないな、と思いながら、私は手にした文庫本をレジまで持って行った。
 なんだかんだ言ってこの連休も、結局、本を読む以外にすることがないのだ。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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