Twitterと自主規制。

      2016/05/09

東京都現代美術館で開催されている、「MOTアニュアル2016キセイノセイキ」を観てきた。
 「MOTアニュアル」は、国内の若手芸術家による現代芸術の動向をフォローするため、1999年から同館が毎年開催している企画展である。第14回となる今年は、タイトルからわかる通り、「表現規制」をテーマにした作品が集められている。通常マスメディアの放送ではカットされてしまうような紛争地域の「現実」(まるで楽しんでいるかのように戦闘を行う若者たち、イスラム過激派が残していったアメリカ製の弾薬など)を映しながら、「本当に肝心な部分」がマスクされてしまっている映像作品《WAR(不完全版)》(横田徹)や、歴史認識の問題により構想されたものの計画が凍結されてしまった戦争祈念館を、展示されるはずだった歴史資料抜きで再現した《想像の祈念館》(藤井光)など、示唆に富んだ作品を多数、目にすることができる。

想像の祈念館

想像の祈念館/藤井光

 その中でも印象に残ったのが、斎藤はぢめの《CLEAR》と橋本聡の《抽象直接行動198の方法(仮)》だったのは、私が暇さえあればタイムラインを眺めているTwitterジャンキーだからかもしれない。
 《CLEAR》は、高校の制服と思われる服を着た若い女性が、飲酒をしている姿を写した写真作品である。女性の年齢は、作品そのものにはもちろん、解説にも記載されていない。ひょっとしたらこれは、未成年が飲酒している場面なのではないか、という疑いを否定できない作りになっている。

CLEAR

CLEAR/斎藤はぢめ

 もちろん、年齢が明記されていないということは、女性が未成年であるともまた、この写真からだけでは断言できない、ということでもある。成人女性が、高校生のコスプレをしているだけなのかもしれないし、何かの事情で通えなかった高校に、成人してから通っているのかもしれない。
 それでも、もしこの写真が、自撮りとしてTwitterに投稿されたとしたら、たぶん炎上することになるだろう。そうでなくても、たくさんのクソリプを招き寄せる結果になるはずだ。「まさかとは思いますが、未成年ではないですよね?」とか「未成年に見えるような格好で飲酒している姿を投稿するのはいかがなものかと思います」とか。公平な言い方をすれば、私自身がそのようなクソリプを送ってしまう可能性も非常に高い。その結果、投稿主がツイートを削除する、ということは考えられる。そして以後、投稿主は、「制服を来て飲酒をする」ような写真の投稿には、自ら「規制」をかけるようになるるかもしれない。たとえその人が成人女性だったとしても。
 実際、Twitterには、まさしくそのようなトラブルを避けるため、プロフィール欄に「成人済み」と断っている人も多い。
 いくらかのユーザーが、「疑わしきは黒」と判断して騒ぎ立てることによって、ネット空間が、いささか窮屈なものになる。そんな「よくあるできごと」を《CLEAR》は思い起こさせた。
 一方の《抽象直接行動198の方法(仮)》の展示室には、テレビや角材、手錠などを、さまざまなものが置かれており、そのそれぞれに、「腰掛けることができます」、「立てることができます」、「自分の手にかけることができます」といったメッセージが添えられている。それらは展示物だけれど、好きに動かしていいですよ、と芸術家が来場者に許可を出しているのである。

抽象直接行動

抽象直接行動198の方法(仮)/橋本聡の一例

 それにも関わらず、テレビに腰掛けたり、角材を動かしたり、手錠を自分の手にかけている来場者は、少なくとも私が見ている限りではまったくいなかった。私自身、それをする気にはなれなかった。いくら作者が「いい」と言っていても、誰もやっていないことを1人やってしまうのは、ちょっと空気が読めてないんじゃないか、と思ったからだ。「いい」というのはあくまでタテマエで、ほんとにやったら怒られるんじゃないか。そう思うと怖くて、とても手を出すことなんてできなかった。学芸員自身がテレビに腰掛けていたにも関わらず、である。
 なにも禁止されているわけでもないのに、私は周囲の目を気にして、言い換えれば炎上を気にして、自分の行動に「規制」をかけた。それもまた、Twitterみたいだ、と思った。
 つまり、これらの展示は、私に「加害者側」と「被害者側」それぞれの立場から、Twitterの(広く言えばインターネットの)窮屈さみたいなものを突きつけてきたのである。
 だから、印象に残ったのだ。
 そうか、私(たち)がやっているのは、表現規制なんだ、と思ったから。
 インターネットを利用する中で、私たちは「常識」や「配慮」の名のもとに、自らの「自由」に制限をかけている。それは、社会生活をしている以上当然のことではある。けれども、それが「当然」であるがゆえに、私たちはつい、他人にそれを強要してしまうことがある。実際には、たいして実害のないようなことであったとしても、口を挟まずにはいられない。すると、その相手は、ことの正否というよりは私たちの「めんどうくささ」に辟易して口を閉ざすことになる。一方で、他人にそれを強要する私たちも、自分のめんどうくささを無意識的にではあれ理解しているために、「自分みたいな人間」に矛先を向けられないようにと、過剰な予防線を張るようになる。こうして、インターネットを少しずつ、息苦しくなっていく。私たちは、自分で自分の首を絞めているのだ。第二次大戦中に人々を抑圧したのが、ゲシュタポや特高そのものであるよりは、国民同士の相互監視と密告であったように。
 インターネットをより快適な空間にするためには、私たち自身が、自らのうちにある「個人的な規制」に自覚的になる必要があるのもしれない。
 「キセイノセイキ」は、そんなふうに、身につまされるところの多い展覧会だった。
 大混雑のピクサー展の代わりに観るには、いささか重すぎたかもしれない……。

東京都現代美術館

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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