葛藤の果てに

      2016/03/13

 きっかけはおそらく、盛口満さんの『ぼくらの昆虫記』だったと思う。
 盛口さんが自由の森学園の教師時代に、生徒たちとともに様々な昆虫の生態を追いかけて綴ったあの本によって、中学生だった私は心の中に、ひとつの大きな葛藤を植えつけられることになった。
 盛口さんは、本のテーマのひとつに、ゴキブリを選んでいた。野外に森林性のゴキブリを探しに行ったり、日本在来種であるヤマトゴキブリを飼育したりして、その暮らしぶりに迫る過程が、綴られている章があった。
 盛口さんの文章が好きだから、他の章は楽しく読んだ私だったが、その章だけは、すんなり読み進める気持ちにならなかった。
 ゴキブリが嫌いだったからである。
 強い毒のあるものを除けば、ヘビでもカエルでもたいていのゲテモノは平気というかむしろ大好きな私だが、どうしても好きになることができない生物が少なからず存在し、ゴキブリは、その頂点に君臨していた。
 小さい頃、部屋に出没したクロゴキブリに身体を這われた経験が、トラウマになっているのだ。
 だから、ゴキブリについて書かれたその章だけはどうにも気が進まなかった。
 ここだけ、読まないでやめちゃおうかな。
 とさえ思った。
 生き物好きだからって、全部の生き物好きになんなくてもいいでしょ、と。
 しかし、本を全部読みきらないで投げ出すことに対しては、本好きとしてのなけなしのプライドが抵抗を示した。当時の私は、一度読み始めた本は最初から最後まで全部読み通さなくてはならないと固く信じていたのである。
 読むべきか、読まざるべきか。
 迷った結果、結局私は、その抵抗に負け、ゴキブリの章を精読することになった。
 すると、これがあろうことか、おもしろいのである。
 盛口さんの物書きとしての才能の為せる技であるとは思うが、読み進めるうちに、私には、なんだかゴキブリが、大変におもしろい、興味深い昆虫に見えてきてしまった。愛おしいとさえ。
「チャバネゴキブリは、1組のペアがいたら理論上は1年後には20万匹に増える」
 突き抜けすぎてて逆にファンタスティック!
 そのおかげで、私は、理性の内では、ゴキブリに関心を持つ少年になってしまったのだ。
 が、しかし。身体はそれに容易には従わない。脳の方が日和っても、私の身体は相変わらず、特にクロゴキブリの成虫を見つけると鳥肌が立ち、動悸がし、硬直する、という拒絶反応を取り続けた。「生理的に無理」というやつだ。脳がどれほどゴキブリへの接近を求めても、身体は言うことを聞かなかった。
 そのために、私は、「ゴキブリに惹かれる脳と、ゴキブリを拒絶する身体」という葛藤を抱え込むことになってしまったのである。
 以来私は、その葛藤の状態によってゴキブリに対する感情が刻々と変化するという大変不安定な精神を抱えて今日までやってきた。
 羽のない幼虫ならばなんとか耐えられたので、ビニール袋で幼虫を捕獲してスケッチするような荒行に臨んだかと思えば、夜中にトイレに行ってふと見上げた壁にとまっている成虫を見て絶叫して飛び出す(あっ、拭いてない)、というようなことを繰り返してきた。
 頭「こんなおもしろいものに手を出さないなんて駄目だ」
 体「嫌なもんは嫌なんだよう」
 興味、嫌悪、羨望、拒絶……様々な感情が複雑に絡まり合い、私の態度はアンビバレントの極致とでも言うべきものになっていた。好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。
 だから、最近はペットショップの店頭でも実に複雑な気分になっていた。最近は爬虫類の餌用にゴキブリが売られていることがあるからだ。私はそれを見かけるたびに、気になって近づいては、容器を手にして直視した瞬間寒気がしてもとに戻す、というようなことを繰り返してきた。飼ってみたいという気持ちと、家で脱走したゴキブリが部屋の壁にとまってるのを見つけたときの想像的恐怖感との間を行ったり来たりしながら。
 悩ましい日々だ。
 ただ、なんだかんだ言っても、こういうものは身体の意見の方が強いものだから、自分がゴキブリを飼うことはきっとないだろうと、私は思ってきた。興味はあると言いながら、結局飼わずに終わるんだろうな、と。このブログにも過去にそう書いたことがある。
 だから、いくら『ときめき昆虫学』によって「虫スイッチ」が押されたからといって、なにがどうしてどうなって今日のような結果になってしまったのか、私は自分でもよくわからないのである。
 正直に申し上げて、私は今、ちょっと混乱している。
 私は今日、マダガスカルオオゴキブリというゴキブリを買った。
 しかもペアで。
 ひょっとしたら疲れているのかもしれない。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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