獣医学科へようこそ。第1話

      2016/07/25

prologue

「なんだか、寄生虫みたいだよね」
 と、彼女は嘲笑うように言った。「他人の不幸に寄生する寄生虫。だって、動物の病気を治してお金を稼ぐってことは、動物が病気になるのを期待してるってことじゃない」
 僕は、何も言えずに彼女の険しい横顔を見つめていた。
「動物が病気にならない未来が来たら、獣医の存在価値なんてなくなるわ。そんな未来を、あんたたちは本当に望めるのかしら?」
「それは……」
 僕が口を開くと、彼女は厳しい目つきで僕を睨んだ。
「それは、何よ。違うっていうなら答えてよ。動物が病気にならなくなったら、あんたたちは、一体何をするの?」
 僕は言葉を探した。でも、思いつくことはできなかった。
「ほら、答えられない」
 勝ち誇ったように、彼女が言う。「やっぱり、あんたたちは寄生虫なのよ。そうでなければ」
 彼女の目に、暗い光が宿る。
「死神」
 感情の抜け落ちた声で、彼女は続けた。「ねぇ。あんたの父親のせいで、マロンは死んだのよ」

 悪い夢を見た後は、いつもひどく喉が渇いている。
 ひりつく痛みに顔をしかめながら、僕はベッドの上に起き上がった。
 額の汗を手の甲で拭い、ベッドを降りる。
 顔を上げると、ちょうど正面の壁にかけられたカレンダーが目に入った。今日の日付に、丸がつけられている。
 そうか、と僕は思った。
 今日は、入学式だった。
 だからか、あんな夢を見たのは。
 漫画みたいだ。
 自分で自分に苦笑しながら、僕は自室のドアを開けた。
 洗面所で顔を洗って歯を磨く。悪い夢を洗い落として、ダイニングに入ると、ちょうど父さんが朝食をとっているところだった。
 母さんは、こちらに背を向けて、洗い物をしている。
「おお、祐介、おはよう」
 父が、僕の姿に気付いて片手をあげた。
「おはよう」
 ささくれだったような喉に響かぬよう、僕は小さな声で答えた。
「あら、今日は早いのね」
 父の声につられて振り返った母は、驚いたように言った。
「そりゃあだって母さん」
 父が、首をのけぞるようにして母の方を見る。「今日から祐介は大学だよ」
「ええ?」
 母が、冷蔵庫の隣にかけられたカレンダーを見る。「ああ、ほんと。いやだ、すっかり忘れてたわ」
「息子の入学式を忘れる母親がいるもんかね」
 父が呆れたように言う。
「しょうがないじゃない。4月に入ってから病院は大忙しなんだから」
「それはそうだけどさぁ」
 2人の会話を聞き流しながら、僕は冷蔵庫を開け、ペットボトル入りの水をとり出す。コップに注いで一気飲みすると、喉の渇きはようやく少し楽になった。
 水を冷蔵庫に戻し、父の向かいの椅子に腰掛ける。
「いやぁ、今日から祐介も獣医学生か」
 感慨深げに、父が言った。「なんともめでたいことだね」
「これで、老後も安心できるわねぇ」
 朝食を作る背中越しに、母さんも言った。
「祐介が後を継いでくれれば、病院をたたまずにすむからね」
 嬉しそうに言う父の声が、僕の耳には痛かった。
 僕には、獣医になる気なんてなかったからだ。
 あの悪夢を見るようになってから、僕は父の仕事を、手放しで肯定することができなくなっていた。長時間の難手術を、何くわぬ顔で黙々とこなす父さんの姿を見て、かっこいいなと思わないこともなかったが、その度にいつも、あの女の子の言葉が蘇り、僕の心をかき乱すのだった。
 このまま大学を出て、獣医師免許を取得したとしても、少なくとも病院を継ぐことはないと、決めていた。
 問題は、その本音を、未だ2人に告げることができていない、という点だった。きっと落胆するだろうし、理由を告げればきっと傷つける。そう思ったら、切り出すことができなかった。告げられないまま、彼らの期待に応える形で僕は獣医学科を受験し、結果的に受かってしまった。そして今日の日を迎えた。彼らは素直に、僕が跡継ぎになるために獣医学科へ進学したのだと信じているはずだった。僕のお腹の底の方には、彼らを欺いている、という罪悪感が、いつもわだかまっていた。
「とはいえ、だ」
 口元の牛乳をティッシュで拭いながら、父は言った。
「いちばん大事なのは、大学生活を満喫することだよ、祐介」
 そう言って、僕の方に1枚の紙片を差し出す。
 受け取って見ると、それは、名刺だった。これから通うことになる、大学の名刺だ。
「そいつは、父さんの大学時代の友人だ」
 と、父は言った。「今日、入学式が終わったら、そいつを訪ねてみるといい。もう、話はしてあるから」
 僕は父の顔を見た。
「面白いやつだよ」
 そう言って、父はにやりと笑った。「そいつに会えば、きっと大学が楽しくなる」
 僕はもう一度、名刺に目を落とした。そこには、「准教授 柏木賢人」と書かれていた。

第1話

「うおお、馬だ、馬がいる」
 厩舎の陰からちらりと見えるサラブレッドの姿を目にして、高橋が興奮した声を出した。「ほんとに、こんな住宅地の真ん中に馬がいるんだな」
「さすが農学部、という感じだね」
 高橋の隣で、道路に面した馬場を見ながら、僕は言った。「向こう側は、もう果てしなく畑だし」
 入り口から見える馬場のちょうど突き当りには、大学構内へ抜ける通用門が作られていて、その先は、両側を小麦の畑に挟まれたあぜ道になっている。
「さっきはヤギもいたし、どっかには牛もいるんだろ。すげぇよな、新宿からたった20分の場所なのに」
「とても東京とは思えないよね」
 進行方向右手に広がる構内の風景を眺めつつ、我々は大学の南門へと歩みを進めた。隣駅近くの市民ホールで行われた入学式を終え、父さんに言われた通り、柏木准教授を訪ねるために、我々はキャンパスへと移動してきたのだった。
「これだったらさ、ほんとうに、入学式も畑でやればいいのにな。わざわざ市民ホールなんて借りないで」
 しゃぶりつくしたアイスキャンディーの棒で構内を指しながら、高橋は言った。
「二番煎じはよくないな」
 とぼけた顔の微生物を思い浮かべつつ、僕は答えた。
「でもさ、なんで講堂とかじゃないんだろう。どこの大学でもそういうとこでやるみたいじゃん?」
「講堂だと、人が入りきらないって話だよ」
「そうなの?」
 高橋が驚いた顔をする。
「これだけ広大な敷地だけど、人のスペースはずいぶんこじんまりとしてるみたい」
 人のためのエリアだけなら、歩いて5分でどこでも行ける、と言っていたのは父さんだ。彼もまた、この大学の卒業生なのだった。広大な敷地の、ほとんどは畑で覆われているらしい。
「いよいよ、東京じゃないみたいだな」
「ほんとにねぇ」
 やがて、馬場が終わり、右手が駐車場に変わる。馬のエリアの方が広いのではないか、と思えるくらいの猫の額程度の駐車場の先に、大学の門が見えた。
「ああ、あそこから入れるみたいだね」
「やっとついたー」
 高橋が達成感と疲労感に満ちた声を出す。市民ホールから大学までは歩いて30分ほど。せっかくだから歩こうぜ、と自分で言い出したくせに、彼は途中で音を上げていたのだ。「土地勘がないくせに、無茶をするべきではなかった」
「別に、高橋は付き合わなくてもよかったんだよ」
 と僕は言った。市民ホールの隣の公園では、今頃サークル紹介が行われている。父さんが会ってこいと言ったのは僕だけだったのだから、高橋だって、そっちに行ってもよかったのだ。人当たりのいい高橋は、入学式の短い時間の間だけでも、すでにたくさんの同級生と打ち解けていた。別に高校から一緒である僕がいなくとも、好きに動けるはずだった。
 けれど高橋は、なぜか僕の方に付いてきた。
「連れないこと言うなって。親友だろ」
 聞いている方が赤面するような台詞を、恥ずかしげもなく口にする。「お前の行くことなら、俺も行くさ」
「うん、ありがたいけど、ちょっと気持ち悪いな」
「ひでぇ」
 門を抜けて、いちばんはじめに見えてきたのは、現代的な造りの動物病院だ。
「おお、都会っぽいものもちゃんとあるんだな」
 ガラス張りで開放的な雰囲気になっているエントランスを覗きながら、高橋が失礼なことを言う。
「まあ、ようやく、大学感が出てきたね」
 笑いを噛み殺しながら、僕も言った。
 動物病院を左手に見つつ、その向こうにある獣医学科棟を目指す。
「それにしても、意外だったよ」
 もう味も残っていないであろうアイスキャンディーの棒をしつこくしゃぶっている高橋に、僕は告げる。
「何が?」
 棒を口から引きぬきつつ、高橋が尋ねた。
「高橋が獣医学科に来たことがだよ」
「え、俺、そんなに動物嫌いそうに見える?」
 冗談めかして、高橋は言った。
「いや、そうじゃないけどさ。でも、タイプ的には、早稲田あたりに行って、ウェイウェイやる感じなのかなぁ、と」
 僕の中の高橋のイメージは、全方位的に私立文系なのだった。高橋と理系なんて、キリンとマヨネーズくらいに結びつかない。
「明太マヨならなんにでも合うらしいぜ」
「なんの話だよ」
 高橋がけらけらと笑った。
「いや、まあ、お前が言うのも楽しそうだなとは思ったけどな」
 ウェーイ、ゆーてワンチャンあるっしょー、と、おどけた調子で言う。
「なんで獣医にしたの?」
「それはほら、手に職ってやつだよ。今の世の中世知辛いじゃん。親父が言ってたんだけどさ、今、親父の職場で配車係やってる人、東北大出身なんだって。その学歴で配車係なんて中卒でもできる仕事をやらなきゃいけない人だっているんだよ今は。だったら、なんか手に職つけとかないとって思ったんだよ。獣医だったら食いっぱぐれないって、お前も前に言ってたろ」
 その通りだった。地方には獣医師の足りていない地域がたくさんあり、勤務地と職種さえ問わなければどこかしらに働き口はある、という父さんの話を、僕は以前、高橋に受け売りにしていた。
「ま、調べてみたら悪くなさそうだったし、それで獣医にしたってわけ」
「真面目なんだか不真面目なんだかわからない理由だなぁ」
「いたって真面目だって」
 動物病院の前を通り過ぎると、獣医学科棟との間に、中庭のような場所が現れた。草も伸び放題で人が通る場所のようには見えなかったけれど、父さんによれば、ここを抜けると建物の裏口にがあり、柏木准教授のいる研究室にはそこからの方が近いらしい。
「高橋、こっちだ」
 僕は高橋を呼び、中庭(というか草むら)を指差した。
 ところどころぬかるんだ場所をよけながら進むと、正面にジュラルミン製のドアが見えてくる。ドアの脇には、何に使うのかリヤカーが置かれていた。ナンバー式のロックがついていたから、閉まっているのかと心配になったけれど、ノブをひねるとドアはすんなりと開いた。
 ドアを開けると、すぐ左手に階段があり、正面にはエレベーターホールがあった。どちらにするかと尋ねる意図で高橋の方をちらりと見ると、ホールからの移動ですっかりバテていた高橋は、迷わずすたすたとエレベーターに歩み寄った。
 遠目からも明らかだったけれど、ずいぶんと古びたエレベーターだった。
 ボタンを押し、カゴが降りてくるのを待つ。最上階にとまっていたカゴが降りてくるまでには、ずいぶんと時間がかかった。森ビルだったら、美術館までたどり着いてしまいそうな時間だ。
 ちーん、と音がして、エレベーターのドアが開く。
 しかし、我々は、すぐには乗り込むことができなかった。
 90リットル入りの大きなポリバケツを2つも載せた台車が、カゴの中を占拠していたからだ。
「ちょ、ごめんね、降りるから。ドア、押さえてて!」
 カゴの中のわずかな隙間に、細くなって収まっていた女の人が、ドア側にいた高橋に向かって叫んだ。高橋がとっさに、エレベーターのドアを押さえる。
 女の人は、「ふうっ」と腕に力を込めて、台車を押した。ゆるゆると動き出す台車。しかし、カゴと外の床との間の溝に前輪がはまり、すぐに動かなくなった。僕は台車に駆け寄り、中腰になって前方部分を持ち上げた。予想以上の負荷が、両腕にかかる。
「重っ。なんですかコレ」
 腕に力を込めながら、僕は女の人に尋ねた。
「ラッ……トの……床……材っ」
 台車に全体重をかけながら、女の人は答える。前輪が溝から外れ、ようやく台車と、女の人がカゴの中から脱出してきた。慣性が働いて前に進み過ぎそうになるのを、ポリバケツを押さえることで防止する。「おっ、とと」
 台車が停止すると、女の人は、ふう、とため息をついた。
「いやあ、ありがとう」
 額の汗を拭いながら、我々に向かって言う。「危うく、エレベーター餓死するところだったね」
「大袈裟な」
 と高橋が言った。
「で。ええっと……君たちは?」
 そこでようやく、女の人は、我々が2人ともスーツ姿であることに気付いたようだった。頭からつま先まで、1人当たり2往復ほど視線を巡らせた彼女は、最後に我々の顔を交互に見て、「あれ、嘘、君たちひょっとして、新入生?」と言った。
「ええ、まあ」
「こんなところでなにしてんのよ。今、向こうでサークルの勧誘とかしてる時間じゃないの?」
「まあ、そうなんですけど」
「なんでこっちに来てんのよ? ちょっと変なの?」
「変て」
 高橋が小さな声で突っ込む。
「ここの先生に、会う用があるんですよ」
 頭上を指差しながら、僕は言った。「それで来たんです」
「そうなの。まあ、なんにせよ変わってるわねぇ。で、誰に会いに来たの?」
「この人です」
 ジャケットの内ポケットから、父さんに預かった名刺を僕は取り出した。
「どれどれ」
 名刺を覗き込んだ女の人は、その名前を読んで「ああ」と言う。
「なんだ、それ、うちの先生じゃん」
「うちの?」
「そ。そこに書いてあるでしょ。生体情報学研究室って。私、そこの学生だから」
「あ、そうなんですか」
「そうそう。あ、ちなみに名前は吉岡ね。そっか。なんか今日来客があるって先生言ってたけど、君たちのことだったのね」
「まあ、おそらくは」
 僕は頷いた。
「でも、残念だけど」
 名刺を僕に返しながら、吉岡さんは言った。「先生、まだ戻ってきてないよ」
「え、どちらかへ行かれてるんですか?」
 僕が尋ねると、吉岡さんはきょとんとした顔をして言った。
「どちらって、市民ホールに決まってるでしょ。准教授なんだから、入学式にだって出てるよ」
 顔を見合わせる、僕と高橋。
「あ、そっか……」
「なに、それに気づいてなかったの?」
 吉岡さんは、呆れた、という顔をした。「だから、サークル見て来てからでもよかったんだよ、別に」
「不覚!」
 高橋が天を仰いだ。
「それに、ちょっと遅くなると思うしね」
「どうしてですか?」
「娘さんを、うちまで送ってくるって言ってたから」
「娘?」
「そう。先生の娘もね、今日、うちの大学に入学したんだよ。見かけなかった? 肩くらいの髪で、お人形さんみたいな顔をした綺麗な子がいたんじゃないかな」
「……ああ!!」
 高橋が声を上げた。「いた、いました。すっげぇ可愛い子。紺のワンピース」
「その子が、先生の娘」
「ま、まじか……」
 高橋が意気消沈という顔をする。その様子を見て、吉岡さんはあはは、と笑った。
「准教授の娘じゃ、そりゃハードル高いよねぇ」
「ショックっす」
「でね、その子を1回家に送るって言ってたから。戻るのは夕方くらいになるんじゃないかなぁ」
「そうなんですか……」
 僕は時計を見た。時刻は午後3時。夕方と呼べる時間までには、まだいくぶんかある。
「まあ、戻ってくるとは思うけど、どうする?」
 と、吉岡さんは言った。「あれだったら、別に、待っててもらってもいいけど」
 僕は高橋の方を見た。
「また、出直すんでもいいよ?」
 しかし、高橋は首を振った。
「いいじゃん。せっかく来たんだし、待ってようぜ」
「いいのか?」
「いいって。今更あっちに戻っても仕方ないだろ」
「そうか」
 僕は頷き、それから吉岡さんに言った。「少し、待たせてもらってもいいですか」
「わかった」
 吉岡さんは頷いた。「そしたら、4階まで上がったら、すぐ左のところに研究室の名前がかかった部屋があるから、そこで待ってるといいよ。今学生は私しかいないから」
「あざーっす」
 高橋が、威勢よく言った。
「んじゃ、私はちょっと、これを始末してくるから」
 そう言って、吉岡さんが再び、台車を押す手に力を込める。
「あ、吉岡さん?」
 その背中に、僕は声をかけた。どうにも頼りなく見えたからだ。
「ん?」
 吉岡さんが振り返る。
「それ、よかったら僕たちで押しましょうか? すげぇ重いですよね、それ」
「いいの?」
「ええ。ただ待ってるのも暇ですし……」
 そう言って、なあ、と高橋に呼びかける。高橋も頷いて、
「そうっすよ。そんなの、女の人には運ばせられませんて」
 と答えた。
「ほんとに?」
 吉岡さんが、探るように尋ねる。
「ほんとですって」
「それなら、お願いしちゃおうかな」
 そう言って、吉岡さんは台車の取手を明け渡した。高橋が代わりにそれを掴み、吉岡さんに尋ねる。
「んじゃ、どこまで運べばいいんすか?」
「ああ、うん、牛舎なんだけどね……」
 吉岡さんはそこで一旦言葉を切り、それからもう一度、念を押すような目で我々を見た。意図がわからずきょとんとしている我々2人と交互に目を合わせた後で、吉岡さんはようやく、盆栽の鉢を割ってしまった子どもがおじいちゃんにそれを打ち明ける時のような表情で先を続けた。「すごく、遠いんだ」

「だぁー」
 吉岡さんの案内で戻ってきた研究室のソファに、高橋は糸が切れた人形のように倒れこんだ。ちょうど頭側に置かれていたクッションに顔を埋めたまま、ピクリとも動かなくなる。
「息、できてる?」
 吉岡さんが、心配そうに尋ねた。
「ふぁいふぉふっす」
 クッション越しに、高橋は答えた。
 吉岡さんの言った通り、牛舎は、ものすごく遠かった。キャンパスの東の外れ、道路を渡ったさらに向こう。獣医学科棟のある「人間エリア」からは、広大な農地を挟んで真反対の場所にあったのだ。中庭に出てリヤカーに積み替えたとはいえ、計180リットルのポリバケツを運んでその距離を移動するのは、そこそこの重労働だった。市民ホールからキャンパスまでの徒歩移動ですでにへばっていた高橋は、今や、ほとんど灰のようになっている。
「ジュース、入れるね」
 吉岡さんが冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注いで渡してくれる。それを喉に流し込むと、多少、疲れが癒えたように感じられた。
「でも、ほんとうに助かっちゃったよ。あれ、1人で運んでたらきっとまだ戻ってこれなかったもん」
 自分の分のジュースをコップに注ぎながら、吉岡さんは言った。
「というか、あの道路で事故って辿りつけてませんて」
 牛舎とキャンパスとを隔てていたのは、道幅も広い上に交通量も多く、信号機のない場所を渡るのには何もなくとも二の足を踏むような道路だった。あんな荷物を積んだリヤカーを引いて、1人で渡ろうというのは、自殺行為と言っても過言ではないように思われた。
「こわかった」
 いつの間にか仰向けになっていた高橋が言った。
「いつも1人で運んでるんですか?」
 尋ねてみると、吉岡さんは首を振った。
「ううん。普段はだいたい2人で運ぶよ。今日もそのはずだったんだけどねー。でも、相方の子が、風邪引いて寝込んじゃってさ。だから、あのタイミングで君たちがいてくれてほんとによかった」
 それから、我々を交互に見てにんまりとする。
「君たちがバカでよかったよ」
「……ほんとうに感謝してます?」
 僕は呆れて言った。
「してるって」
 僕と目を合わせないまま、吉岡さんは答えた。
「しかし、あの量やばくないスか。たかがラットの床材で、あんな量になるもんなんスね」
 仰向けのまま、高橋が尋ねる。「みっちり180リットルでしょ」
「まあねー。1週間溜めてるってのもあるけど、なにしろ、300匹分だから」
「300匹!?」
 高橋が目を丸くする。「そんなにいるんスか」
「そりゃあ、実験は数が勝負だからねぇ。薬の効果を調べるにしても、1匹がよくなりましたってだけじゃ、ただの偶然かもしれないでしょ。たくさんの個体に使って、たくさんがよくなりましたって証明しないと。そうやって数揃えてくと、あっという間にそうなっちゃうのよ」
「大変なんすね、研究って」
「そうだよぉー。数が増えたらメンテも大変だし、どちらかと言えば肉体労働だよ」
「……よくわかるッス」
 灰が引きつり笑いをした。
「ちなみに、今はどんな研究をしてるんですか?」
「え? ああ、なんだったけなぁ」
 顎に人差し指をあてて、吉岡さんは考えこむ仕草をした。
「覚えてないんスか」
 高橋が突っ込む。
「だって、私の実験じゃないんだもん」
 言いながら、吉岡さんはデスクの引き出しをがらがらと開けた。「えーっとね……」
 ごしゃごしゃと紙類をより分けて、彼女がようやく「あ、これこれ」と引っ張りだしたのは、A4数枚にまとめられた資料だった。斜めに数ヶ所、折れ線が入っている。折ったのではなく、引き出しの中でもみくしゃになるうちに折れたのだろうと思われた。
「たとえば、こういうのだよ」
 そう言って、資料を見せてくれるが、一読しても、書いてある内容はよくわからない。
「先輩、わかんねっす」
 高橋が言った。「俺ら、今日大学入ったばっかなんで」
「あらら。しかたないなぁ。まあ、簡単に言えばコレは、内分泌攪乱化学物質、いわゆる環境ホルモンの研究だね」
「環境ホルモン」
「そうそ。化学物質が脳とか生殖器系にどんな影響を与えるかってやつだね。あとはそうだね、母乳が仔に与える影響とか、そういうのを調べてる人もいたかな」
「へぇー」
「先輩は何をしてるんですか?」
「あぁ、私はねぇ、ヘビのホルモンを調べてる」
「ヘビ!?」
 予想外の発言に、高橋は跳ねるように上体を起こした。「そんなんまで相手にするんスか」
「まあ、半分は趣味みたいなもんだけどねー」
 吉岡さんはひらひらと手を振った。
「でも、なんでヘビなんか」
「んー、厳密に言うと、脱皮を調べてるんだけど」
「脱皮」
「ほら、ヘビって、脱皮するでしょ? きれいに、するするーっと」
 そう言って、空中の何かの皮を向くような仕草をする。
「まあ、見たことはねぇっスけど」
「するんだよ。でもね、ストレスとか、栄養失調とか、脱水とか、いろいろあると、脱皮不全っていって、うまく脱げなくなるんだよ。ぼろぼろフケみたいに剥がれ落ちたり、そもそも角質の更新が不完全で剥がれないままになっちゃったりね。飼育のトラブルではけっこう多いほうかなぁ。感染やら壊死やらを招いたりして、なかなか面倒なんだ。それでね、ヘビの脱皮を促すのはサイロキシンってホルモンなんだけど、それをこう、うまく使ったら、治療とか予防とかに選択肢が増えないかな、と思って、そのホルモンを調べてるんだ」
「……ヘビ、好きなんスか」
 おそるおそる、高橋が尋ねる。
「んー、別に普通。嫌いではないかな。ほんとはトカゲがよかったんだけど、ホルモン測定に使えるだけの採血ができるサイズのトカゲだと、飼うのに場所をとり過ぎるんだよ。ヘビならでっかくても場所とらなくてサンプルたくさんとれるから、ヘビにしたの。世話も楽だし」
 吉岡さんは無邪気に答えた。
「わかんねぇ、それでヘビを選べるのがわかんねぇ」
 ヘビが苦手な高橋は、ぶんぶんと首を振った。
「意外に顔可愛いよ」
「いやいやいやいや」
 高橋の反応を見ながら、吉岡さんは意地の悪い目でにやにや笑っている。
 そのやりとりを横目で見ながら、僕は、吉岡さんから受け取った資料をめくっていた。
 書いてあることの意味は、半分くらいしかわからない。それでも、吉岡さんの話も含めて、ここが、臨床的な研究をしている場所ではない、ということくらいはわかった。少なくとも、僕は日頃、家で目にする「獣医」の姿とはずいぶんとかけ離れているように思えた。それが、僕には不思議だった。ここは獣医学科のはずだけれど、診療をしないでいったいなにをしているのだろう。
「ん、どうしたの、思いつめたような顔をして」
 僕の思考を、吉岡さんが遮った。「水谷くんもヘビ嫌い?」
「あ、いや」
 僕は、資料に落としていた目を上げた。「それは、平気ですけど」
「そりゃよかった」
 吉岡さんが笑う。「よくねぇよ」と高橋が叫ぶ。
「じゃあ、何か気になることがある?」
「うーん、なんというか、あんまり、獣医っぽくない研究なんだなぁ、と」
 とたんに、吉岡さんの目がすっと細くなる。
「なんだって?」
「だって、ほら、病気の治療法とか、そういうのを調べてるわけじゃないじゃないですか。吉岡さんの研究にしても、要するにヘビの生物学的なことを調べてるわけで。なんとなく、理学部っぽいっていうか」
 すると、吉岡さんは、「あー」と言いながら椅子の背もたれにもたれかかった。
「なるほどねぇ、君も、獣医イコール臨床医だと思ってる口なわけだ?」
 そう言って、しょうがないなぁ、という顔で僕を見る。「まあ、開業医の息子だもんねぇ」
「違うんですか?」
「もちろん、違うよ。まあ、君に限らず、獣医学科に来る子の大半はそう思ってるけどね。動物病院のお医者さん、あるいは動物園の獣医さん? テレビに出てくるのだってたいていその辺だから、しかたないっちゃしかたないんだけど。でも、獣医の仕事はね、君たちがイメージしてることよりもずっと幅広いんだよ」
 たとえば、と吉岡さんは人差し指を立てる。
「うちでやってることだってそう。毒性学に近いようなこともうちではやってるけど、基本的には基礎研究、だよね。生き物の体の仕組みを調べる。君の言う通り、必ずしも病気を調べるわけじゃない。確かに、獣医じゃなくてもできる仕事かもしれないよ。私の研究は、たぶん比較内分泌学会で発表するけど、来てるのはほとんど理学部の人だしね。だけどね、それが獣医の仕事じゃないかっていうと、ちょっと違うんだ。君が言うように、病気を治す方法を研究するのは大事なことだけど、そのためにはまず、そもそも動物の身体がどんなふうにできてるかがわからなきゃいけないんだから。病気ってのは、要するに身体の機能のどこかがおかしくなってるってことで、病気を治すってのはそのおかしくなったところを元に戻すってことだよ。だけどさ、正常な身体がどんな作りでどんな働きをしてるのかわからなかったら、なにがおかしいのかも、どう戻せばいいのかもわからないでしょ。身体のことがよくわからなかった昔は、病気になるのは悪い血が流れてるからだって、ひたすら血を抜いて病気を治そうとしてたことだってあるんだよ。治るわけないじゃんね。それでみんな失血死しちゃうの。そういう間違いを犯さないために、基礎研究はあるんだよ。で、そういうのはやっぱり、獣医じゃないとだめなんだな。病気の知識もちゃんとないと、どこから手を付けていいのかわからないから。あんまり大事じゃないことにとらわれちゃったりしてさ」
 滔々と語る吉岡さんを、僕は唖然として見つめていた。その内容は思いつきで話しているにしてはあまりにも整理されていて、きっとこの人は、僕の持っているような「イメージ」を跳ね返して、基礎研究を続けていくことを選んだ人なんだろうなぁ、と思わせた。
「Do you understand?」
 吉岡さんが、びし、と人差し指を僕に突きつける。勢いに飲まれていた僕は、僕はおずおずと頷いた。
「よろしい」
 吉岡さんが、にっこりと笑った。
「まあ、今話したこともほんの一部だけど、とにかく、獣医にもいろんな仕事があるわけだよ。患者さんは診なくても、うちの先生たちだってちゃんと獣医なんだよ」
 ただ、それでも、僕には疑問が残った。臨床だけが獣医の仕事ではないにしても、息子を跡継ぎにしようとしている臨床医が、わざわざ非臨床の領域に息子をやったりするだろうか。
「でも……」
 と、だから僕は口にした。吉岡さんが、まだ何か、という顔で僕を見る。その目を見て、僕は言った。
「でも、父が、そういう研究室を訪ねろと言った理由は、まだわかりません。獣医の仕事に幅があるのだとしても、病院を継ぐことを望むなら、臨床の研究室にやるんじゃないかと思います。なんで基礎系なんだろう……?」
 吉岡さんが、ふむ、と腕組みをする。
「それはきっと、親心ってやつじゃないかな」
「親心?」
「だって、おうちが動物病院で、そこを継ぐんでしょ。それで大学でまで臨床に入り浸っちゃったら、それしか見ないで終わっちゃうじゃん。そりゃもったいないって。だから大学の間くらい、違うところにやろうってことなんじゃないかな」
「一人前になるのが遅くなっても?」
 そう尋ねると、吉岡さんがあはは、と笑う。
「それもねぇ、よくある勘違いみたいだね。臨床に進みたいから臨床の研究室、みたいなの。実際はね、学生のときになにしてようが、現場に出たら、使えないことに変わりはないんだってさ。臨床の研究室でちょっと積んだくらいの経験の差なんて、3ヶ月もすればなくなるって聞くよ。逆に基礎やってた子の方が、視野が広いし変な癖がついてないから使いやすいって先生もいるみたいだしね」
「そうなんですか」
「まあ、私だってまだ5年生だから、よくわかんないけどね。でも、うちの研究室を出て、臨床やって病院開いてる人だってたくさんいるのは確かだよ。だから、好きにやれっていうことなんじゃないかな。その手を見る限り、どのみち家ではお手伝いなんでしょ」
 吉岡さんは僕の左手を指差す。この間できたばかりの咬み傷が、親指と人差し指の間に残っていた。野良猫の保定をし損ねて咬まれた痕だ。
「痛かったでしょ、それ」
「だいぶ」
 ふふん、と吉岡さんが鼻を鳴らす。
「ま、あなたのお父さんがどういうつもりなのかは、私よりも、先生に聞いたらいいんじゃない? どのみちもうすぐ会うんだしさ」
 ちょうど、吉岡さんがそう言った時だった。研究室のドアが開くギギギ、という音が、室内に響き渡った。
 音につられて、そちらに目をやる。開いたドアをくぐってきたのは、身長190cmはあろうかという大柄な男性だった。
「いやぁ、遅くなってしまいました。吉岡くん、まだいますか?」
 室内に向かって、男性が呼びかける。
「先生、こっちですよ」
 ドアとソファのあるスペースを隔てるスチールラックの隙間から、吉岡さんが男性を呼んだ。「お客さまもお待ちですよー」
「ああ、そこにいましたか」
 男性が、ソファの方へ歩いてくる。
「先生遅かったですね」
 椅子をくるん、と回して男性の方を向き、吉岡さんは言った。「お姫様のお供は大変でした?」
「そりゃあもう」
 男性が苦笑いする。「失敗です。甘やかして育てすぎました」
「しょうがないですよ。どんな男親でもあの子は甘やかします」
 吉岡さんが断言する。
「ははは」
 まんざらでもなさそうに笑う男性。
「ハードルはエベレストのように高いな」
 と、その様子を見ていた高橋が僕の耳元で囁いた。
「……そんなに可愛かったの?」
「お前、なんで俺の隣にいて気づいてねぇんだよ」
 高橋がやれやれと首を振る。「そんな草食っぷりじゃあ、いつまで経っても童貞のままだぜ」
「あのな……」
「まあ、それはさておき」
 男性がこちらを向いたので、我々は慌ててひそひそ話を切り上げた。
「じゃあ、君が……」
 そう言って、男性が僕の方を見る。
「そう、この子が水谷祐介くんですよ」
 手のひらを上に向けて、吉岡さんが僕を指す。
「はじめまして」
 僕は男性に向かってお辞儀をした。
「ついでに、この子は水谷くんのお友達の高橋くん」
「ついでにって」
 高橋が吉岡さんに突っ込む。男性は笑いながら、これはこれは、と言った。
「すいません、着いてきちゃいました」
 おどけたように高橋は言った。
 続いて吉岡さんは、男性の方に手を向ける。
「そんでこちらが、うちの准教授の、柏木賢人博士(獣医学)」
「かっこ?」
 奇妙な言葉遣いに、揃って首を傾げる僕と高橋。
「……毎度のことですが」
 心底迷惑そうに、柏木博士(獣医学)は言った。「口頭で紹介するとき、かっこってつけるのやめてもらえませんか」
「しょうがないじゃないですか、正式表記なんだから。文句は文科省に言ってください」
 あっけらかんと吉岡さんは答える。
「それはそうですが、というか、このくだりは目の前の2人には伝わってるんですか?」
 先生に指摘されて、吉岡さんが「ああ」という顔をした。
「ええと、あのね」
 我々に向き直って説明を始める吉岡さん。
「テレビに研究者の人が出てきたときに、“獣医学博士”とか、“理学博士”みたいな肩書きがつくことがあるでしょ?」
 我々は頷く。
「実はコレはね、古い言い方なんだ。ちょうど先生の代くらいからかな。博士、のあとにかっこ書きで分野を書くように表記が変わったの。だから、それ以前に博士号を取った人は、なんとか博士、なんだけど、以降の人は、博士かっこなんとか学、っていう変な言い方になってるんだよ」
「変に使ってるのは君だけですよ」
 やれやれ、と先生が首を振った。「それ、よそで言ったら怒られますよ」
「はぁい」
 あまり聞いていない様子で、吉岡さんは返事をする。
「それより先生、祐介くんの、相手をしてあげないと。せっかく来てくれたんですから」
「はいはい、そうですねぇ」
 説得を諦めたらしい先生は、再び我々の方に向き直った。娘がお姫様に育ってしまったのだとしたら、その責任は間違いなくこの父親にあるのだろうと思いながら、僕はその会話を聞いていた。
「さて、祐介くん」
 先生が、僕の顔を見て言う。
「はい」
「あらためて、ご挨拶します。私が、柏木賢人です」
 先生は、そう言って右手を差し出した。大きな手だ。僕はおそるおそる、その手を握った。手のひらはとても分厚い。
「水谷、祐介です」
「獣医学科へようこそ」
 ぐ、と手に力を込めて、先生は言った。
「私は、君のお父さんから、6年間、君を頼む、と言われています。なので、まあ君が望むならということですが、学内でのことは、私ができるだけ面倒をみたいと思っています。友達の息子ですからね、親戚みたいなもんと思ってください。困ったことがあれば、頼ってもらって構いませんからね」
 握った手を放し、先生は続ける。次は自分か、と思い高橋が身構えたが、先生はの手は、そのまま、下に下げられた。高橋がずっこける。
「それで、今日は学内を案内でもしようかと思ってたんですが、いささか遅くなってしまいましたからね。とりいそぎ、うちの研究室でも見学してもらって、あとは軽く食事でもしながらお話を、と思いましたがいかがですか?」
 僕は高橋の方を見た。研究室を見せてもらうのは構わないけれど、食事までというのは、高橋がいずらくならないだろうか。遠慮した方がいいのかもしれない。
 けれど、高橋は僕を見てにっと笑ったのだった。
「もちろん、先生の奢りっすよねー??」
 高橋は、さも長年研究室にいる学生かのように言った。先生が驚いたような顔をする。
「それはそうですが、君も来るんですか」
「え、ダメっすか」
 大げさに悲しそうな素振りをする高橋。「悲しいっす」
 その様子を見て、先生は、
「しょうがないですねぇ」
 と苦笑混じり言った。こういう所作がなぜか通ってしまうのが高橋のすごいところだ。
「まあ君もいらっしゃい。ついでですからね」
 先生は、意地悪そうな顔をして言った。
「ついでって」
 高橋が先生に突っ込んだ。

 そもそも、研究室、研究室とさっきから言っていたものの、実を言えば、「研究室」というのが何を指すものなのか、僕にはよくわかっていないのだった。先生の説明によってわかったことは、大学の「研究室」というのは、会社で言えば庶務二課、みたいな、部署を表すものであって、空間を表すものではない、ということである。だから、その「研究室」が専有している空間としての部屋は複数あって、さっき我々が話をしていたところは空間としては学生室だし、今いるところは実習室、なのだった。高校の理科室みたいな雰囲気だ。中央にガス栓と流しのついた木製の大きなテーブルが、全部で6つ並んでいる。正面には教壇と、大きな黒板。窓際にはテーブルのものとは別に流しが設けられている。壁際の棚には、ビーカーやフラスコやメスシリンダーがしまわれていた。
「さしあたり、君たちがいちばん来ることになるのはこの部屋でしょうねぇ」
 教壇の前に立って、先生は言った。「1年生のうちは座学が中心ですが、2年生から基礎系の実習が始まります。まず解剖学実習。そのあと、ここで生理学実習。3年生になったら、しばらくここに通い詰めになりますね」
 きょろきょろと、部屋の中を見回す僕と高橋。その後ろには、なぜか吉岡さんも付いてきている。
「コンビニみたいな冷蔵庫がある」
 と高橋が言った。見ると、確かに、コンビニで飲み物を並べているみたいな大きな冷蔵庫が、部屋の隅にでん、と設置されている。
「それは、試薬を補完する冷蔵庫ですね。実習で使うものもありますし、うちの学生が研究で使っているものもあります。実験室の冷蔵庫だけでは収まりきらないので」
「先生、ビールは試薬に含まれますか?」
 高橋が、手を挙げて尋ねた。冷蔵庫のいちばん下には、缶ビールが2ダースほど詰め込まれていたのだ。
「ああ、それはねぇ、今度、研究室に留学生が来るので、そのときの歓迎会用にとっておいてあるんですよ。学生室の冷蔵庫では、イマイチ冷えが悪くてね」
 苦笑しながら先生が言う。「事務には内緒ですよ」
「いや、っていうかわけわからん薬とかと一緒にしまってあるビール飲むんだ?」
「すぐに慣れるよ。別に汚くないし」
 後ろで囁いた吉岡さんを、高橋が驚愕の眼差しで見つめた。
「うちの冷蔵庫も今こんなかなぁ」
 と僕も言った。狂犬病予防接種のシーズンには、人用の冷蔵庫の中にまでワクチンのストックが進出してくるので、僕もそういう同居状態には慣れているのだ。高橋は、まるで見知らぬ人を見るような目で僕を見た。
「俺、理科室に保管されてた食べ物とか絶対食べたくない……」
 うわ言のように呟く高橋。
「それじゃあ獣医は無理だなぁ」
「そんなところっすか!?」
 高橋のリアクションに吉岡さんはけらけらと笑う。
「どうしましたか?」
 離れていたので我々の会話が聞こえなかったのか、怪訝な顔をして先生が尋ねた。
「先生、高橋くん退学しちゃうかも」
 からかうような調子で、吉岡さんが答える。
「ええ?」
「薬品と一緒にビール入れてるなんて、無理、だって」
「ああ、それは困りましたねぇ」
 まったく困っていない口調で、先生は言った。「理系でその感性はちょっと大変ですよ」
「そのレベルで?」
 高橋が絶叫する。「おとなしく早稲田に行けばよかったよーぅ」
 その肩を、僕はぽんぽんと叩いた。「そう言うなよ。ワンチャンあるかもしれないだろ」
「いやいやいやいや、無理無理無理無理」
 やりとりを聞いて、吉岡さんはまた笑いをかみ殺しているが、経緯を知らない先生はきょとんとしている。
「なんだか仲間はずれな感じですねぇ」
「しょうがないです。若者には若者の世界があります」
 吉岡さんが言った。
「それはおじさんがいちばん傷つく返しですよ」
 先生がしゅんとする。
「まあまあ。ほら、先生、次は実験室を見せてあげましょう」
 吉岡さんが、先生の背中を押した。
「え、ああ。そうですねぇ」
 そう言って、先生が出口に向かって歩き出す。我々もその後に続いた。
 続いて案内された実験室は、実習室に比べてだいぶんこじんまりとした部屋だった。
「研究室の学生は、ここで普段、いろいろな実験をしています」
 右手をかざして部屋の中を示しながら、先生は言った。「ものが多いので、少々手狭ですがねぇ」
 先生の言う通り、実験に使う器具と思われるものが所狭しと置かれている。そのほとんどは名前もわからないものだった。かろうじてわかるのは、院内検査でも使っているマイクロピペットや遠心分離器くらいのものだ。
「あのチャッカマンの親戚みたいのはなんだ?」
 先生のあとについて、中央の作業台の横を通るとき、高橋が僕の肘をつついた。
「高校で、ピペットって使ったろ。ガラスのやつ。液体吸うのに。あれの上位互換みたいなものだよ。もっと微量まで測れるんだ」
 高橋が、なるほど、という顔をする。
「あの、R2-D2みたいなやつは?」
「遠心分離器。液体の中に混濁してるものを、遠心力で沈殿させる機械」
「へぇー」
 どちらも、うちでよく使うのは血液検査だ。
「よくご存知ですねぇ」
 横で聞いていた先生が、感心したように言った。
「でも、ほとんどわかんないですよ」
 僕は首を振った。「あのたいやき屋の屋台みたいのとか、見たこともないし」
 そう言って、部屋の隅に置かれている大型の装置を指差す。先生は頷いて、
「ドラフトチャンバーですね。濃硫酸みたいな危険な試薬を扱うときはあの中で作業するんです。陰圧になっていて、ガスも外に漏れないようになっています」
 と言った。
「逆に中が陽圧になっていて、変な菌とかが混ざらないように作業できるクリーンベンチってのもあるよ」
 吉岡さんが、後ろから説明を加える。「まあこの辺使うのは、4年生で研究室入ってからだねー」
 ほかにもいろいろなものが並んでいたが、中でも室内を狭苦しく感じさせているのは、ずらっと並んだ冷凍庫だった。温度は家庭用のものよりもぐっと低く、高くても-25℃、低いものは-80℃ほどにもなっている。
「この中には、研究に使うサンプルや試薬が入っています」
 冷蔵庫の扉をこんこんと叩きながら、先生は言った。
「すごい温度ですね」
「-60℃と-80℃の方は、素手で中の物に触ったら、指くっつきますよ。それくらいでないと、すぐ傷んじゃうんです。-20℃くらいなら、まあまあ大丈夫ですけど」
「中には、どんなものが」
「そうですねぇ。けっこう雑多に入ってたりしますね。レッサーパンダの糞とか、ゾウの血液とか」
「ゾウの血液?」
「またけったいな」
 僕と高橋は声を揃える。
「うちはわりと、動物園から頼まれたら、なんでもやっちゃうところがあるから」
 吉岡さんが言った。
「ゾウでは、なにを調べてるんですか?」
「簡単に言えば、繁殖周期の解明、ですね。もう20年以上になるんじゃないかと思いますが、当時、ゾウの繁殖周期はほとんどなんにもわかってなかったんですよ。ゾウは普段雌雄が別々に暮らしていて、雌が発情している間だけ雄がやってくる、という動物ですから、繁殖周期がわからないことにはメイティングも難しい。犬猫と違って、つがいで飼ってたら勝手に殖えた、なんてわけにはいかないんです。それで調べはじめて、だいぶいろいろなことがわかってきました」
「あとは、シャチとかもやってる先輩いましたね」
「ああ、やりましたねぇ、シャチ」
「そんなものまで……」
「ルーティンの仕事ではないですけどね。頼まれて、手に負えそうならお手伝いはしています。動物園動物の飼育下繁殖というのも、今は重要性が増してますから」
「……国内絶滅」
 いつだったか、新聞で目にした言葉を僕は口に出した。
「それです」
 我が意を得たり、というふうに先生が言う。「CITES、いわゆるワシントン条約締結からこっち、野生動物はおいそれと買えるものではなくなりました。特に希少な動物は、なかなか出してくれない国が多いです。もちろん、ものによっては探せばいるみたいですけどね。そういうのを持ってくるのがうまい動物園や動物商もいます。とはいえ、手間も値段も、すべての動物園が割けるものではないですから。これからも同じように、動物園で動物が見られるようにするなら、繁殖させて賄うしかありません。だからここでは、そのためのお手伝いもしてるんですよ」
 見てみますか、と言って、先生はひとつの冷蔵庫の扉を開けた。中には、ラベルの張られたプラスチック製のチューブがぎっしりと並べられている。
「すごいですね……」
「全国の飼育員の方々の努力の結晶ですよ。頭が下がります」
 そう言って、先生はその中から、1本のチューブを手にとった。
「これはある意味、夢の仕事と言えるかもしれませんねぇ」
「夢の仕事?」
「ええ。たとえばゾウは、どこの動物園でも人気動物です。子どもたちは、みんな喜ぶ。それに、こと動物に関しては、大きいというのはシンプルにいいことなんですよ。持ってるパワーが違います。ザトウクジラ、1回跳ねるだけで人の人生を変えますよ。ゾウにもそういう力があります。ただそこにいるだけで、我々が10万文字費やしても伝わらないようなことが伝わるんです。全国どこに住んでいる子どもでも、町の動物園でゾウが見られるなら、素敵なことじゃないですか。そういう意味で、これは夢の仕事なんです」
「夢」
 僕は、先生の手の中のチューブを見つめた。
「先生、顔に似合わず臭いことを言いますね」
 吉岡さんが茶々を入れる。
「やめてください」
 先生が迷惑そうに言った。「今、せっかく祐介くんが、沼に足を踏み入れかけてるところですよ」
「沼って自分で言ってるじゃないですか」
「ああ、しまった」
 先生の一言で、僕も我に返る。
「だめですよー、水谷くんは跡取りなんですから、この沼に落としちゃ」
「たしかにそうですねぇ」
 先生は、再び冷凍庫を開け、チューブを戻して扉を閉めた。「つい、うっかり」
「とはいえ、ね」
 と、吉岡さんが僕の方を見る。「こういうのも、獣医の仕事なわけだよ。けっこう、いろんなことしてるでしょ」
 僕は頷いた。先生が、「勝手に締めないでくださいよ」と文句を言う。吉岡さんは、してやったり、という顔で笑った。
「まあ、とはいえ、今日は実験している学生もいませんし、話すとしてもこのくらいですかねぇ」
 先生は実験室をぐるりと見回し、
「じゃあ、食事にしましょうか」
 と言った。
「先生、あたし中華がいいです」
「吉岡くんまで付いてくるんですか」
「私がいた方が、この子たちも緊張しないで済みますって」
 ねー、と言って、吉岡さんが我々に笑いかける。
「あはは」
「……愛想笑いされてますよ、吉岡くん」
「いやいやいやいやいや」
 吉岡さんは、高橋の首に手を回して、もう一度「ねー」と言った。
「そ、そうですお姉さま」
 高橋は言った。
「ほら」
 吉岡さんが笑顔で先生を見る。
「無理矢理じゃないですか。……まあ、いいですよ。準備をしてきますから、君たちも荷物をまとめなさい」
 先生はしかたなさそうに言った。
「やったぁ、おごりだぁ!」
 吉岡さんがガッツポーズをする。その姿を見た先生は、大きなため息をついて実験室の扉を開けた。
 高橋に続いて、最後に実験室を出るとき、僕はもう一度、その室内をぐるりと見回した。家の処置室とはいくぶん異なる雰囲気。これも獣医の仕事場なのか……。そんなことを思いながら、電気を消し、部屋を出る。
 そうして振り返った僕に、吉岡さんがす、と身体を寄せてきた。
「水谷くんさぁ」
 囁くように、吉岡さんは言った。「ほんとはあんまり、跡を継ぐ気とかなかったりしない?」
 僕は、驚いて吉岡さんの顔を見た。それを見て、吉岡さんが笑う。
「図星、という顔だね」
「なんでわかったんですか?」
「だって、最初に下で会ったとき、これから大学生活が始まるってのに、全然楽しそうな顔じゃなかったんだもん。高橋くんの方がよっぽどうきうきした顔をしてた」
「ああ」
 と僕は声を漏らした。「出てましたか……」
 吉岡さんは頷いて、
「そうだね。それが今は、さっきより楽しそうな顔してる。だからおや、と思ったんだよ」
 と言った。
「よく顔に出るって、高橋にも言われます」
「どうして、病院が嫌なの?」
「それは……」
 言いかけて、僕は口をつぐんだ。一言では、伝えられそうにないからだ。
「……まあ、いろいろあるか」
 僕が話しそうにないのを見て取ると、吉岡さんは呟いた。それから、くるり、と回って僕の前に出る。
「もし、うちの研究室に興味を持ったんなら、いつでも遊びに来ていいよ。こきつかってあげるからさ」
「……それは、なんとも答えかねますね」
「喜びなさいよ、お姉さんが相手してあげるって言ってんだから」
「いやいやいやいや」
 大袈裟に首を振る僕を見て、吉岡さんはふん、と笑った。もう一度くるりと回って、僕の横に戻る。そして、
「冗談はさておき、迷いや悩みがあるなら、6年間、いろんなことを見て回るといいよ。時間がたっぷりあるのが、獣医学科の特権だからね。で、じっくりと考えるといい」
 と、言った。
「……そうします」
 僕はゆっくりと頷いた。
「よろしい」
 吉岡さんが満足気な顔をする。
「あ、それから、そういえばさ」
 いっそう潜めた声で、吉岡さんは続けた。「さっきのワンチャンって話」
「はい?」
 意表をつく展開に、思わず声が裏返る。
「私、高橋くんじゃなくて、君の方にあるような気がするんだよなぁ」
「……先生の、娘さんのことですよね?」
「そうそ。なんだかね、君たち、似た者同士のような気がするんだよ」
「そうなんですか?」
 言いながら、僕はふと、さっき吉岡さんが言った気になる言い回しを思い出した。
「そういえば、君“も”そういう口か、みたいなことおっしゃってましたね」
「鋭いね。先生の娘さん、真白ちゃんって言うんだけどさ。あの子もね、臨床こそ獣医、みたいな感じで、おまけに、臨床に対してちょっと屈託がある。君と同じだ」
「……屈託」
「だから、けっこう気が合っちゃうかもしれない」
「でも、要するに父親が基礎系の研究者なわけでしょう。なのにどうして?」
「んー、そこは私からはあんまりしゃべれないけど」
 吉岡さんが、横目で僕の顔を見る。「まあ、すぐにわかるよ、あの子に会えば」
 もったいぶった言い方に、僕は眉をひそめた。けれど、深く尋ねることはできなかった。支度を整えた先生が、我々を急かしたからだ。
「はぁい」
 吉岡さんが、返事をして歩き出す。
 引っ掛かりを残したまま、僕は先を行く彼女の背中を追いかけた。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

 - 獣医学科へようこそ