採集の功罪。

      2016/03/18

 小学生の頃は、毎年夏休みになると、両親の実家に滞在するのが恒例だった。父方の家と母方の家それぞれで、1週間強くらいずつ過ごすのだ。
 父方の家は住宅地にあったが、母方の家は田園地帯にあった。自然が豊富で、周辺の水田や用水路(ついでに家の中)にはいろいろな生き物が出現するため、私と弟は、連日、宿題をほっぽらかし、虫取り網を片手にその辺を走り回っていた。
 遭遇する生き物たちの中でも、とりわけ我々の関心を集めたのは、用水路に住むアカハライモリだった。そこそこの大きさがあり、出現頻度が高く、トカゲやカエルに比べて捕まえやすかったからだ。ヘビみたいに、咬まれて帰って周りの大人がパニックになる、ということもなかったし(田舎では、実際マムシに咬まれる子どもが多かったので大人は神経質になっていたのだ。「いやいや、シマヘビだから咬まれたの」と言っても、「シマヘビには毒がない」こと自体もあまり知られていなかった)。我々はたいてい、イモリ採りを主目的として行動していた。
 その用水路には、ほんとうにイモリがたくさんいた。ものの数分で、提げていた小さなプラケースが真っ黒になってしまうくらいだった。それを持ち帰り、水槽に入れて飼うのがこれまた毎年の恒例だった。我々は、毎日かぶりつきでイモリたちを観察していた。私の有尾類好きは、おそらくこの体験に由来している。
 通常は、母の実家を後にするときに、捕まえたイモリをもとの用水路に放流していた。本当は家まで持って帰りたかったのだが、イモリを抱えて山口から千葉まで移動するのは面倒だな、とも思っていたからである。
 しかし、ある年に、思い切って、イモリたちを千葉まで連れて帰ることにした。プラケに水苔をこんもり敷いてイモリを入れ、大事に抱えて飛行機に乗ったのである。
 輸送はつつがなく終了し、プラケに入れた10匹のイモリたちは1匹も弱ることなく、元気に自宅の水槽に導入された。
 とても幸せな気分だったのを覚えている。
 ところが、程なくして、悲劇が訪れる。
 私はイモリの水槽を、家のベランダに置いていたのだが(今考えるとあまりよろしくない)、大雨により水槽が溢れ、イモリたちが流されてしまったのである。
 たまたま、私たちが小学校から帰ってくるまでは家に誰もいない日で、朝取り込み忘れた水槽は、そのまま雨ざらしになってしまっていた。
 家に帰った時には、もう1匹のイモリも残されていなかった。その光景を目撃したときの衝撃は忘れることができない。
 立ち直りが早いことだけが取り柄の小学生だが、その時はしばらく落ち込んでいた。
 しかし、本当の衝撃を受けたのは、翌年、ふたたび母の実家を訪れた時だった。
 家に着くなり、私は、もう一度イモリを捕まえて、今度こそ長く飼育しようと勢い込んで用水路を訪れた。いつものように、たくさんのイモリがそこにいるであろうことを微塵も疑わずに。
 ところが、私の目に映ったのは予想外の光景だった。
 イモリが、いなかったのである。
 あれほどいたイモリが、全部で50mほどある用水路のどこにも見つからなかったのだ。
 何度往復しても、いない。
 どういうことだ……?
 私は混乱した。
 すぐには、その状況を受け入れられなかった。
 今日は、たまたま「そういう日」なのに違いない。明日、もう一度来てみよう。
 そう考えた。
 もちろん、翌日も事態はまったく変わっていなかった。
 相変わらず、イモリはいない。
 用水路の環境が変わったわけではなかった。去年とおんなじ、護岸のごの字もない素朴な用水路だ。洗剤が浮いていたりもしない。田んぼの様子も変わらない。平和なものだった。
 それなのに、どうしていなくなったんだ……?
 いよいよ、私は考え込んだ。
 そして、思い至ったのは、最悪の可能性だった。
「ひょっとして、去年の、あれで全部だった……?」
 私が千葉に持って帰って、大雨に流されたあの10匹が、この用水路に棲んでいたイモリの全部だったのではないかという恐ろしい可能性だ。
 これまでは毎年放流して帰っていたから気づかなかったけれど、我々は毎年、「同じイモリ」を繰り返し捕まえていたのかもしれない。
 だから、それを根こそぎ持って帰ってしまったことで、用水路のイモリが「絶滅」してしまったのではないだろうか。
 だとしたら。
 とりかえしのつかないことをしてしまった。
 そう、思った。
 それでも、イモリたちが雨に流されていなければ救いようがあった。また連れてきて放流すればいいからだ。しかし、もうそれすらも叶わない。
 なんてことだ。
 もちろん、本当のところはわからない。たまたまその年から、農家が新しい農薬を使うことにしたのかもしれないし、もともとじわじわ減っていたのかもしれない。それでも、やっぱりタイミングが合いすぎる……。少なくとも、「トドメ」を刺してしまった可能性はある。
 私が、絶滅させた……。
 その夏休みを、私は完全に灰色の気分で過ごした。
 そして、さらに翌年、翌々年も、用水路にイモリが現れないことを目の当たりにして、疑念は確信に変わっていった。
 以来、私は、採集をやめた。
 また同じことになったらどうしようと、怖くなってしまったのだ。
 人間の行為が、自然に影響を与えることをはじめて実感したのがその時だ。
 その時の体験は、未だにトラウマ的に私の心にこびりついている。
 子どもの虫採りくらいで滅ぶ虫はいない、という人がいるが、それは違うだろうと、だから私は思っている。
 子どもの虫採りによってだって、滅ぶものは滅ぶと思う。
 とはいえ、だから採集を全面禁止しろと主張するつもりはないけれど。
 私の場合はいささか極端だったにせよ、自分の振る舞いに自然がどう反応するのかを体感することが、「自然を知る」ということだ。採集は、そのためのもっとも有効な手段のひとつだ。動物行動学者の小林朋道さんは、著書『ヒト、動物に会う』の中にこう書いている。

 ウィルソン自身も著作の中で、狩りにとって必要な「動物の習性や生活を熟知すること」が、(特に大人になって)それらの動物の絶滅に心の痛みを感じやすくさせるのではないかと述べている。そして最近では、それを科学的に検証するような実験結果も(私の研究も含めて!)発表されるようになってきた。

 禁止したら、保全の最前線に立つ生き物屋は育たない。
 ただ、子どもに無邪気に採集をさせるほどの余裕が自然の側にないことも現代ではあるわけで、大人が、どう導いていくかは、真剣に考えなければいけないと思う。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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