解剖の何が悪いんだ

      2016/03/18

 NPO法人動物実験の廃止を求める会(JAVA)が、埼玉県立自然の博物館で行われる予定だった動物の解剖イベントを中止に追い込んだことがあったそうである。

 博物館での死体解剖イベント、中止となる! | NPO法人 動物実験の廃止を求める会(JAVA)

 自然の博物館は、今年の2月8日に、「筋肉の作りを知ろう」と題し、動物の解剖を行うイベントを開催する予定であった。「市民」から情報を得たJAVAは、館長に対しイベントの中止を要請。それを受け、博物館は解剖の中止を決めたのだという。
 誇らしげに書かれたJAVAの文章を読んだ私は、なんともったいないことをしたのかと、残念な気持ちでいっぱいになった。
 せっかく、生き物好きの高校生が死体からいろいろなことを学びとれる貴重な機会だったのに、と。
 動物を観念的にしかとらえていないJAVAのみなさんは知らないかもしれないが、死体から学べることはとても多い。
 基本的な身体の構造はもちろんのこと、胃の内容物からはその動物の食性を、歯や骨の状態からはその動物のおおよその年齢を、怪我の痕からはその動物の来歴を(あるいはそれらを類推する方法を)知ることができる。交通事故死した動物の死体を解剖すれば、「自動車に撥ねられると動物の身体はどんなふうになるのか」ということが一目でわかる。状態のよい死体が一体あれば、それだけで修士論文なら書けてしまうくらい、死体は情報の宝庫である。
 動物学を修める上で、死体に勝る教材は生体くらいしか存在しない。
 そのような優れた教材に高校生が触れることのできる貴重な機会を、「かわいそう」などという個人的な感情でJAVAは潰したのだ。
 これほどもったいないことはない。
 確かに、JAVAの会員を含めた世の中のほとんどの人にとっては、動物の死体から得ることのできる情報の大半は別に知らなくてもいいことである。タヌキの胃の内容物に何が多いかを知らなくたって、生きて行くのに困りはしないし、空疎なプラカードならいくらでも作れる。だから、そんなことしなくたっていい、知らなくたっていいと彼らが思うのはしかたがない。また、必要としない人にまでわざわざ知らしめる必要のないことも事実である。
 けれども、動物のことを深く知りたいと願う人にとっては、それらはひとつも捨てることのできない重要な情報なのである。それなくして、動物の真の姿に迫ることなどできないからだ。学校の授業ではなく、博物館で開催されるイベントにわざわざ参加しようと考えるほど生き物好きの高校生にとっては、それこそ喉から手が出るほどに欲しかった情報であるはずだ。
 それを高校生の手から取り上げるだけの一体どんな権限が、JAVAにあったというのだろう。
 それでも主張に理があるならいい。
 しかし、彼らが主張する「解剖がいけない」理由はどれも、的外れなものばかりだった。
 解剖で命の大切さは学べないと彼らは批判するが、解剖は動物に関する知識を得るためのものであって、そもそも命の大切さを学ぶためにするものではないのだからそれは批判になっていない。包丁が砥げないことを理由に洗濯板を否定されても困ってしまう。
 また、解剖をさせると「解剖はよいこと」という間違った認識を高校生が持ってしまうと言うけれども、別にその認識は間違ってはいない。上述のように様々な情報が得られるのだから、解剖はよいことである。相撲部屋が隠蔽しようとした虐待死を暴いたのは、解剖だった。動物の虐待死だって、解剖で暴くことは可能だ。
 轢死体を教材に用いると、野生動物の交通事故を防ぐ努力をしなくなるという主張は端的に嘘である。考えてもみて欲しい。手間暇かけて動物を解剖してまで彼らのことを知ろうとするくらい生き物に関心を持っている人間が、彼らの死に心を痛めないわけがないだろう。むしろそれくらい勉強熱心な者ほど、野生動物と人間の共存について深く考えを巡らせているものである。大学や公官庁に勤め具体的な施策を立案、実行しているのもそういう人たちだろう。というかそもそも、それとこれとは話が別だ。売春を違法としていても、それに従事せざるをえない売春婦の人権は尊重されるべきであるのと同じだ。動物の交通事故死はないほうがいいのは当たり前。でも、いざ発生してしまった場合に、死体を単に焼却処分するだけでは、動物はそれこそ無駄死になってしまう。学問のために用い理解を深めることが、むしろ犠牲に報いるものであるはずだ。
 知識は模型などの代替法でも得られるというのは、義務教育レベルに限って言えばそうである。教科書に載っていることを一般常識として、試験の答案に書ける程度に学ぶのならば代替法で十分だろう。しかしここで対象となっているのは、動物についてより深い知識を得たいと思っている人たちである。その人たちの求めるものには、代替法では応えられない。本物の犬の死体を撮影して作られた解剖学の図譜を参照しながらですら、目の前の犬の死体の筋肉の同定ができないことだって初学者にはあるのだから(体験談)。
 こんな理由で圧力をかけるのは、次世代の科学者の芽を摘む愚行にしか思えない。
 小学校で、義務教育で轢死体を使って解剖をします、というのなら、いかがなものかと異議を唱えるのもわからなくはない。ちょっと慎重になった方がいいと私も思う。意欲も感受性も知性もばらばらな子どもたち全員にルーティンで解剖を強いれば、児童側にも教師側にも、JAVAが危惧するようなバカが現れないとも限らないからだ。
 でも、自然の博物館のイベントはそういうものではない。これは、ちゃんと科学を学びたい人たちのためのものだった。
 個人的な信念によって、その人たちが科学する機会を妨害するのは、「公共の福祉」を無視した思想の自由の発露、言い換えれば他者の思想の自由の侵害である。
 繰り返すが、そんなことをする権利は、誰にも(みんな忘れているかもしれないので付け加えれば内閣総理大臣にも)与えられてはいない。
 JAVAが博物館にしたことは、横暴であり科学の冒涜以外の何物でもないと私は思っている。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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