右向け右が現代流なのではないでしょうか

      2016/03/18

 熊代亨さんの『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)を読みました。若者文化(サブカルチャー)を代表する3つのカテゴリー、オタク、ヤンキー、サブカルが、それぞれ希釈拡散され、ロードサイドのショッピングモールに代表される「ファスト風土」に取り込まれていく中で、かつてそれらの文化を担っていた「尖った連中」はどうなっていくのか、現に「ファスト風土」を享受している「若いやつら」とはどのような集団なのか、ということを論考した本です。
 この本の中に出てくる、サブカルについて書かれた一節が興味深かったので引用します。
 なお、4文字のスラングとしての「サブカル」は、「サブカルチャー」を単に略したものではなく、消費活動、具体的には、どんな服を身に纏い、何を食べ、どんな音楽を聴くのか、といったことを通じて、「自分はこのような(センスのよい)人間である」ということを周囲へアピールしてみせ、また、そのような「センスのいい自分」をアイデンティティの核とするようなタイプの(PENやBRUTUSなどの雑誌に対する親和性の高い)人々のうち、特にサブカルチャーに傾倒している人々のことを意味します。このようなサブカルタイプの人々の変化について、熊代さんはこのようなことを書いていました。

 当時、サブカル達が『クイック・ジャパン』『STUDIO VOICE』『宝島』といった雑誌を重視していたのは、多岐にわたるジャンルすべてに「アリかナシか」を賞味するのは難しく、自己修練だけではカヴァーできないジャンルについての情報は雑誌に任せざるを得ない、という事情があってのことでしょう。
 (中略)
 ただし、このサブカル的発想を裏返して考えるなら、雑誌やオピニオンリーダーが「アリ」と宣言したモノやコンテンツだけをつまみ食いしていても、サブカルは一応スタイルとして成立しなくもない、とも言えます。
 (中略)
 だったらいっそ、賞品選択能力のセンスを磨くための労苦を省略し、特定の雑誌やサブカルショップに目を光らせ、オピニオンリーダーが投げ与えてくれる「アリ」を受身的に消費したほうが、自分でコツコツ頑張るより手堅く、より低コストに「アリ」なサブカルになれるんじゃないか――そういう発想の転換が可能になってしまいます。
 (中略)
 そうした「サブカルのコピーアンドペースト」の流儀は、サブカル雑誌の流通やサブカルショップの地方進出とともに、これまた全国の若者へと拡散していきました。
 (中略)
 かくして、サブカルというスラングで指し示される人々のうち、主体的なセンス磨きとコンテンツ開拓に余念の無い“尖った連中”の割合は少なくなり、受動的で(インターネットも含めた)メディアに依存した、情報の消費者的な人間の割合が高まるようになりました。

 かつての「サブカル」の主流は、自らの審美眼をもとに様々な消費財を主体的に選別し、「センスのいい自分」を作り上げる人々だったが、現在の主流は、オピニオンリーダーがお墨付きを与えたものを受動的に採用する人々になっている、ということです。
 そのような状況に対して、かつてジャンルを主導していた「大御所」からは「サブカルは終わった」という感想が寄せられているらしいことも、別の場所に書かれています。審美眼を鍛えて先端を走ろうとするのがサブカルであって、雑誌が薦めるものを後追いするのは違う、ということでしょう。
 この文章を読んだ時、私は、ビバリウムガイド54号のトークステージに収録されている、冨水明さんとGo!! Suzukiさんとの間で交わされたこんな会話を思い出しました。

ごう これはボールだけに限らず右向け右の楽しみ方しかできないというかしないのは嫌かなあ。
冨水 わかってる組み合わせ、安全な組み合わせしかやらない傾向はあるかもね。たとえばバンブルビーとかレモンブラストとか知ってる組み合わせしかやらない。そうじゃなくて、特徴あるスパイダーを手に入れたからこんなバンブルビーを作ってみたいっていうのがないと。
ごう そうそう! まさにそういうこと。個体ありきであるはずなんだけど、組み合わせありきになっちゃって、なんだろ? その個体選びにしてもその名前であればいいみたいなところがね。
 (中略)
冨水 繁殖ありきでもかまわんのだけど、繁殖がゴールになっちゃってるんだよね。殖えればいいみたいな。もちろんね、殖やすだけですごいなあってのもいるんだけど、すごくわかりやすく言うと、なんのこだわりもないハイイエローのヒョウモン殖やしたって誰も喜ばないじゃない(笑)。そこに「いや、これは今や見れないクラシックタイプのハイイエローなんだ」って言うならわかるけど。
ごう なんか趣味の楽しさがなくなってる気はするんですよ。

 似ているような、気がしませんか?
 Go!!さんの言う「右向け右の楽しみ方」というのは、そのまま、「コピーアンドペースト」と言い換えられるように私には思えました。
 冨水さんたち「90年代組」の感慨が真実であるのならば、爬虫類の世界にも、サブカルの世界と同じような変化が起こっているらしいことになります。だから私は、先の引用部分に、興味を惹かれたのです。
 『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』には、このような変化は、若者を取り巻くより大きな構造的変化に対する若者たちの「適応策」であるということが書かれています。
 経済状況の変化により、地方出身者が東京へ出て行く際のハードルは高くなっています。並外れて強い野心や、優れた能力があれば別ですが、「普通の人々」にとっては、地元で就職し、地域のコミュニティの中で暮らすことの方が現実的になりました。
 また、インターネットの登場により、現在は、地方と首都圏との間に情報格差がほとんどなくなり、流通網の発達によって売れ線・定番のアイテム・コンテンツについては物流格差もなくなりました。消費生活の面でも、「地元でそこそこハッピー」になったのです。
 その結果、「地元の仲間」と親密なコミュニケーションを重ねることで自らの立ち位置やアイデンティティを確保し、「趣味」は仲間とのコミュニケーションを円滑に運ぶための潤滑油として用いることを「生存戦略」とする若者が多数派となりました。
 コミュニケーションの潤滑油としての趣味ですから、あまりにも個人的過ぎるもの、先鋭的過ぎるものはお呼びではありません。趣味人としての眼鏡に適うかどうかというよりは、「記号」として仲間たちと共有可能かどうかの方が重要となります。「通」でなければ価値のわからないようなものは、「仲間」とは共有できません。ならば、メディアが「これがいいよ」と薦めるものをみんなで享受していれば十分です。わざわざ審美眼を鍛えるためにリソースを割く必要はなく、むしろ、「こだわる」ためにコミュニケーションのためのリソースまで使ってしまっては本末転倒、ということになります。
 そこに、アニメイトやヴィレッジヴァンガードが出店してきたために、若者たちはサブカルチャー的なものを、「コミュニケーションの道具」として使用するようになってきたのです。
 これが、サブカルチャーが平均して「ぬるく」なった経緯であり、それは若者の怠惰の証明ではなく、むしろ適応力の証明だというわけです。
 同じように、現在の爬虫類趣味の多数派が、90年代組の人たちからみて「ぬるく」見えるのだとしたら、それもまた、時代を反映した「適応」の結果なのではないか、と私は本を読みながら思いました。
 2010年代には、2010年代の楽しみ方があるのだよ、というわけですね。
 趣味の楽しさが失われている、というのはあるいはその通りなのかもしれませんが、それ単体ではない複合的な「楽しさ」を、21世紀の趣味人は堪能しているのではないでしょうか。
 私はどちらかと言えば適応しそこねている部類なので、ドヤ顔では言えないんですが。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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