ボードリヤールと爬虫類。

      2016/03/18

 ジャン・ボードリヤールという人がいた。『消費社会の神話と構造』という本を発表し、現代思想に大きな影響を与えた哲学者・社会学者である。
 ボードリヤールは、「消費」と「浪費」の違いについて書いている。
 哲学者の國分功一郎が、『暇と退屈の倫理学』という本の中で、それを簡潔にまとめているので引用する。

 浪費とは何か? 浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。
 (中略)
 浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物をとることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。
 (中略)
 しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
 なぜか?
 消費の対象が物ではないからである。
 人は消費するとき、を受け取ったり、を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。
 (中略)
 記号や観念には限界がない。だから、記号や観念を対象とした消費という行動は、けっして終わらない。

 ※OSやブラウザによらずルビを均等に打つのが難しいので、原文の傍点部を太字に改変している。

 「浪費」というのはたとえば、ルフィが、サウザンドサニー号に積んだ「1ヶ月分の食料」を3日で食べつくしてしまうような行為である。サンジやチョッパーが計算して用意した食料であれば、「普通の人間の体型」を保てる範囲で食事をするだけで、航海には十分であるはずである。それにも関わらず、ルフィは、ゴムの身体を風船のように膨らませて内容積を増し、必要以上の食料を体内に取り込んでしまう。そういう行為をボードリヤールは「浪費」と呼ぶ。しかし、いかなルフィといえども、いずれ満腹になる時が来る。浪費には限界があるのである。
 一方の「消費」とは、たしぎが刀を蒐集するような行為である。人が一度にふるえる刀の数には限界がある。1度に三振りなどという無茶をしているのはゾロだけで、たしぎは1度に一振りしか使えない。ならば武器としてもっとも優れている一振りを持っていれば十分である。それにも関わらず、たしぎは自らが持ちきれないほどの刀を集めている。刀そのものではなく、そこの付与された観念を蒐集しているからである。そこには限界がない。
 この「消費」と「浪費」の区別に従うならば、現代社会で我々が購入しているほとんどのものと同じように、爬虫類を買うこともまた、「消費」である。
 私たちは爬虫類を買うとき、「個体そのもの」を受け取っているのではない。家の中をどれだけ爬虫類だらけにしても飽きたらず、イベントに行くと新たな爬虫類を欲しいと思ってしまうのは、私たちが、それに付与された意味や観念に、主に金を払っているからである。「個体そのもの」でなく、たとえば「珍しい」という「意味」が購買の対象になっているからである。でなければ、「色が違うだけ」の色変個体に、ノーマルの何十倍もの価格が与えられるわけがない。
 個体を1頭しか飼育していない場合でも事情は変わらない。私たちは、1頭のトカゲモドキというよりはむしろ、「かわいい」という観念を受け取っている。
 人と違った生き物を飼っている個性的な私。
 クオリティの高い個体を厳選して揃えているセンスのいい私。
 ワイルドに拘る自然派の私。
 そのようなアイデンティティを補強するための「観念」として、私たちは爬虫類を「消費」しているのである。
 爬虫類を買う行為は、決して「浪費」ではない。
 だから、爬虫類にお金をつぎ込むことを「浪費」として責められたならば、堂々と次のように反論すればよいのである。
 これは「浪費」ではない。ボードリヤールがそう言っている、と。
 権威に弱いタイプであれば、うまくすれば、けむにまくことができるだろう。
 ただし、その場合、フェアネスの観点から、相手の金遣いについても、ほとんど文句を言えなくなる(相手がルフィでなければ)という、いかんともしがたい難点が存在するわけであるが。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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