なぜ動物に名前をつけるのだろう?

      2016/03/20

 新約聖書のヨハネによる福音書には、こんな一節がある。

初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。

 万物は、神の言葉によって創造されたというわけだ。神が「光あれ」というと光が生まれたように、まず先に言葉があって、あとから、その言葉に対応する実体が作られるという形でこの世界はできあがったと、キリスト教では考えられている。
 この、「言葉による天地創造」は、私たちの言語活動を鮮やかに表現した比喩である。
 むろん、私たちが「光あれ」と叫んだところで光を創造することはできない。しかし、それに近いことを、私たちは日常的に行っている。
 たとえば、爬虫類の品種である。
 ヒョウモントカゲモドキに、「ハイイエロー」と呼ばれる個体たちがいる。その名の通りヒョウ柄をしたヒョウモントカゲモドキのうち、地の黄色みが他に比べて強い個体たちのことだ。
 注目したいのは、今現在「ノーマル」、つまり平均的なヒョウモントカゲモドキの体色をしているとして売られている個体のうちには、「ハイイエロー」が流通し始めた当初ならおそらく、「ハイイエロー」と呼ばれていただろう個体が多く含まれている、ということだ。選別交配によって、ハイイエローの系統は、より黄色みを増していった。その一方で、野生個体の流通が少なくなり、ヒョウモントカゲモドキ本来の平均的な体色をした個体が見られなくなった。その結果、もともとハイイエローとして扱われていた個体の中でも、「あんまり黄色くないやつ」はノーマルとして扱われるようになったのである。時が経つに連れて、ハイイエローとノーマルを分ける境界線が変化したのだ。
 このことは、「ハイイエロー」と「ノーマル」の間には、もともと境界線なんてなかった、ということを意味している。両者の間にはじめからディジタルな境界線があったのであれば、基準が変化することなどなかったはずだからだ(アルビノの境界線が変化することはない)。両者は、チーズケーキとチョコレートケーキのように「異なるもの」だったわけではなくて、「ちょっと焼色にムラのあるスポンジケーキの各部分」くらいなものだった。それを人間が勝手に切り分けたのである。だから、時代によって境界線が変化することになったのだ。
 要するに、「ハイイエロー」という品種は、自然界にもともと存在したのでも、選別交配によって作り出されたのでもなく、人間が「ハイイエロー」という言葉を与えることによって創造されたものなのである。
 このように、もともと境界線のなかったところに人為的に境界線を引いて、世界にまとまりをつけるのが、私たちの言語活動の正体である。
 思想家の内田樹さんは、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの主張を受けてこんなふうに書いている。

 それは星座の見方を知らない人間には満天の星が「星」にしか見えず、天文に詳しい人には、空いっぱいに「熊」や「獅子」や「白鳥」や「さそり」が見えるという事態と似ています。黒い空を背景にして散乱する無数の星のあいだのどこに切れ目を入れて、どの星とどの星を結ぶか、それは見る人の自由です。そして、ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「もののかたち」を見出すことができます。でも、二人並んで星座を見ているときに、よく経験するように、見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。
(略)
 言語活動とは「すでに文節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。――『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)

 私たちが認識する世界には、いつでもはじめに言葉があるのだ。
 さて、なぜ私がこんなことを延々と書いているかというと、これを踏まえて、「人はなぜ動物に名前をつけるのか」という話をしたいからである。
 私は、飼っているボールパイソンに「ポール」という名前をつけている。これはほとんど無意味な行為のように思える。名前を呼んでも、ヘビにはそれを聞き取るための聴覚が存在しないからである。相手がオオトカゲであれば、餌と関連付けることによって名前に反応するよう仕込むこともできる。が、ヘビ相手ではそれすらできない。ヘビに名前をつけたとしても、実用的な効果はほとんど見込めない。
 それにも関わらず、購入したその日のうちに、私はボールパイソンに名前をつけた。
 いったいなぜだろう?
 「名前をつける」ということが、「切れ目のない世界に切れ目を入れる」ことであるならば、その問いに答えらしきものを見つけることができる。
 名前を付けられた個体は、そのことによって、「その他大勢」から切り分けられた存在になる。私はたぶん、「ポール」という名前をつけることによって、「ボールパイソン」という集合の中からその個体を、「唯一無二のもの」として切り分けたかったのである。「代わりのないもの」として「創造」したかったのである。
 動物飼育は、所有欲と関係欲求によって基礎づけられた行為だ。野外、あるいは動物園でも見ることができる動物を「手元に置きたい」と思うのは、それら2つの欲求が私たちの中にあるからに他ならない。
 そのような欲求を持つ私たちは、動物を飼育するとき、「その個体が自分にとって特別なものなのだ」という擬制を無意識のうちに採用する。「この個体は別に、誰に飼われてもよかった」、「私も別に、どの個体でもよかった」という前提の上に立っていては、所有欲はともかく、関係欲求を十分に満たすことはできないからだ。恋人同士がその出会いに「運命」を求めるように、飼育者もその動物との出会いに「運命」を求める。お互いにとってお互いの存在が「特別」であると信じようとする。
 その擬制を成立させるための手段として、人は動物に名前を与えるのだと私は考えている。たとえ、呼んでも返事をすることのない動物だったとしても。
 飼育動物に名前をつけることは、「ただの動物」ではなく、「特別ないち個体」が存在する世界を立ち上げようとする行為なのだ。
 相手を唯一無二の存在として捉え直すことは、その相手を大切にする、慈しむことにつながる。最後まで面倒を見るのだ、という覚悟を込める、という意味合いにもなる。動物に名前をつけることは、よりよい飼育を実現するための一助になるだろう(名前をつけていない人がそうしていない、という意味ではない)。だから、基本的には「よいこと」だと私は捉えている。
 けれども、その一方で、これは、怖いことなのかもしれない、とも感じている。
 「唯一無二のものとして名前をつける」ということは、その存在を、ほかのものから「引き離す」ということでもあるからだ。
 特別な名前を与え、特別な枠組みの中にその個体を隔離することは、「拉致監禁」という飼育のおぞましい側面を、そのまま露呈させているようにも思える。
 でなくとも、「名付け」には不穏な要素が漂っている。「名前」は、古来よりもっとも取り扱いに注意の払われてきた言葉だ。
 古典文学が読みにくい理由のひとつに、文の主語が明示されないことが多い、という点が挙げられるが、これは当時の人々が、相手を名指しすることを忌み嫌ったからである。当時の人々にとって、「相手を名指しする」ことは、「相手の名前をデスノートに書く」くらいの覚悟を必要とする行為だった。「千と千尋の神隠し」の湯婆婆が、千尋から名前を奪い、「千」という名前を与えることで彼女に「呪い」をかけたように、古来から「名前」には、「対象を縛る呪力」があると捉えられてきたのである。デスノートは、平安の呪術を現代に蘇らせたものに過ぎない。日本に限った話ではない。『西遊記』で銀閣と金閣が持っている瓢箪も、「名前を呼ぶ」ことで相手に呪いをかける道具である。
 「名前」をつけることは「呪い」をかけること、そのような文化を、私たちは受け継いできた。
 ということは、名前をつけることで、私たちは、本来自由であった動物に、「自分のもとから離れられなくなる呪い」をかけようとしているのかもしれないとも言えるのである。
 もしそうだとしたら、それはとても恐ろしいことだ。
 名前をつけることで、私たちは飼育動物に対する愛情を亢進させることができる。それは素晴らしいことだと思う。けれども、そのあまり、相手のハクのようにしてしまわないように、警戒しなくてはならない、とも思うのである。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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