多様性原理主義

      2016/03/18

 しばらく前に、テレビで、大西洋におけるウミガメの種間交雑を問題視した番組を放送していたことがあった。
 元ネタは、2006年にブラジルのウミガメ保全団体タマル・プロジェクトと地元の研究者らが発表した学術論文である。1995年から2005年にかけて、ブラジル北東部の海岸に産卵に訪れた、あるいは沿岸に生息していたタイマイの遺伝子解析を行なったところ、全119匹中50匹がアカウミガメとの、2匹がヒメウミガメとの交雑種だったと、その論文では報告されていた。実に44%が交雑個体だったという結果は学界の注目を集め、以降、ウミガメの交雑に関する報告が続々と寄せられるようになった。番組は、それらの報告に基づき、「ウミガメに異変が起こっている」ことに警鐘を鳴らす構成になっていたと記憶している。
 その番組を見て、私は違和感を覚えた。というのは、そこで問題視されていたのは、「ウミガメが交雑していること」そのものだったからだ。
 アカウミガメ、ヒメウミガメ、タイマイの3種は、もとからその海域に共存してきた生き物だ。もとから一緒にいたものが交雑をはじめたのだから、それは、「地理的に隔離されていた別々の生き物が、人の手によって移入させられることによって交雑をはじめた」というよくある事態とは根本的に異なっている。交雑は「問題」ではなく、なんらかの問題に対するカメたちの「回答」である可能性が高い。交雑でもしなければやってられない状況になったから、交雑してしのいでいる、というわけだ。
 それにも関わらず、番組では、その背景について考察することはなく、ひたすら「カメが交雑していることが問題だ」と繰り返していた。ある産卵巣から孵化してきた子ガメが交雑個体ではなかったことについて、「安心した。交雑個体が増えれば、純粋なタイマイは絶滅してしまうから」というような研究者のコメントを流しさえしていた。交雑個体に生殖能力があることは、この場合にはむしろ望ましいことだと思えるのに、「せめて生殖能力がなければよかったのに」みたいなことも言っていた。
 そのことを「変だ」と私は思った。
 交雑が「回答」であるのなら、カメたちが交雑してでも着実に命を繋いでいることは、むしろ寿ぐべきことだ。「回答」を出せずにウミガメたちが滅んでしまうよりずっとマシである。それなのに、どうして交雑個体に、ほとんど憎しみに近い感情を向けなければならないのだろう? っていうか、人間が勝手に、タイマイとアカウミガメとヒメウミガメは別物、と思っていただけで、やつらの主観では、「出自のことなるエスニックグループ」くらいな感覚だったんじゃないの? 文化が違うから普段は混じらないけど、ヤろうと思えばできるよ、みたいな。
 交雑することで、生態系に悪影響を及ぼすおそれがある、というのならばわかる。でも、番組内で、そのような説明はいっさいなかった。なぜ、交雑してはいけないのか、という説明はなく、ただただ、「交雑が問題。交雑によって種が消滅することが問題」と言うだけだった。本来ならば、「ウミガメを交雑に走らせている原因はなにか。それはどうすれば解決できるのか」を考えなければいけないのに、「交雑ウミガメがいなくなれば問題は解決する」という姿勢だった。「ウミガメ」が命を繋いでいくことよりも、「種がきちんと確立されていること」の方が大事だ、と言わんばかりだった。「種」なんて人間が創り出したフィクションに過ぎないのに。
 それは、「多様性原理主義」とでも言うべきものではないか。
 私には、そう思えたのだ。
 多様性を保全するべきなのは、その方がそうしない場合よりも、「いいこと」が多いと考えられるからである。生物多様性の保全とは、その「いいこと」を守るための手段に過ぎない。そのことを忘れて、「多様性の保全」という手段が自己目的化してしまったら、それはほとんど宗教と変わらない。
 「交雑ウミガメそのものが問題」という態度は、そんな原理主義的宗教のように私には映った。
 ウミガメだけに限らない。
 実際のところ、保全に関する啓発活動の中では、このような原理主義的な考え方が、しばしば、顔を出すように思われる。
 少なくとも、説明が足りないせいで、原理主義的に見えてしまう場面は、少なくない。
 たとえば、中国から持ち込まれたチュウゴクオオサンショウウオと国産のオオサンショウウオの交雑が進んでいることを報道するニュース記事で、「純血のオオサンショウウオがいなくなってしまうとなにが問題か」について触れていたものを、私は寡聞にして知らない。交雑オオサンショウウオが生態系に及ぼすおそれのある悪影響について、あるいは、「なにが起こるかわからない」というリスクについて、少しでも説明してあれば、生き物に特別の関心を抱かない人でも理解がしやすいと思うのに。遺伝子撹乱が起こることが悪いという。じゃあ、どうして遺伝子撹乱が起こってはいけないのか。交雑は、たとえば「アライグマに競り負けて絶滅した」とかいうのとは性質が異なる現象だ。繁殖しているのだから、遺伝子はちゃんと次世代に伝わる。その環境下において適応的でない遺伝子は淘汰されていくだろうが、それは交雑しようがしまいが同じことだ。淘汰圧を受けない中立な遺伝子、あるいは塩基配列のバリエーションは、外来の遺伝子が混ざったとしても、DNAの中にちゃんと保存されて伝わっていくだろう。遺伝子レベルでみれば、そもそも多様性は減少していないし、それ以前に、「オオサンショウウオの遺伝的多様性が減少したら、なにか悪いことがあるの?」という疑問に回答が必要だが、そういう記事を見かけることはない。
 それは、いかがなものだろうか、と私は思ってしまう。
 なぜなら伝わらないからだ。
 私を含め、生き物好き、あるいはもっと突き抜けて「生き物屋」と呼ばれる人たちは、「多様性そのもの」を愛する性癖を持った人種である。だから、多様性が減少すること「そのもの」に、「すわ一大事!」と反応してしまう。でも、それはある特定の人々の、特殊な「価値観」のひとつに過ぎない。ニホンバラタナゴがタイリクバラタナゴに置き換わってしまうことは、生き物の好きな人にとっては大いなる損失だが、それによって人間の生活に影響が出ないのであれば、生き物に興味のない人にとっては「どうでもいいこと」である。車に興味のない私にとっては、乗用車の車種が1種類しかなくても構わないように。原理主義的な主張では、そういう人たちの心にはたぶん届かない。届けるためには、「なぜ置き換わってはいけないのか」をきちんと説明する必要がある。一般論ではなく個別具体的に。
 もちろん、「なんのための多様性保全なのか」ということを、説明する側自身がはっきり認識しておかなければいけない。でないと、危機的状況の中でウミガメが必死に子孫を存続させようとしているのに、「交雑個体は有害だから」とせっかく生まれた子ガメたちを駆除してしまい、むしろ彼らを絶滅の淵に追いやってしまうような事態にもなりかねない。あるいは、ある地域のニホンイシガメが絶滅したときに、「その産地のものとはっきりしている純血の系統がいないから再導入できない」みたいなことになりかねない。ニッチを空白のままにして生態系に「穴」を開けてしまうくらいなら、ローカリティーがわからなくてもとりあえず導入して「穴」を埋めた方が生態系全体(あるいはニホンイシガメという種全体)にとってはむしろプラスかもしれないのに(もちろん緊急避難的措置だけれど)。オオサンショウウオにしても、たとえば、「全個体の半数が雑種」というような事態になったら、「雑種を放置しておく」ことよりも、「雑種をすべて駆除していきなり個体群を半分にしてしまう」ことの方が、危険なことに繋がるおそれもあるわけで。国産だか中国産だかわからないけれど、とりあえずオオサンショウウオがニッチを埋めている、という状況の方が、オオサンショウウオが完全に消滅してしまうよりもマシであるのは間違いないはずだ。
 「多様性の保全が大事」というのは、お題目ではない。
 原理主義に陥ることなく、プラグマティックに考え、伝えていかなければいけないと思う。
 

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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