姿は要らない。

      2016/02/23

 恋とは、おおむね幻想である。
 恋に落ちた私たちは、現実の相手を目前にしていてさえ、無意識のうちに頭の中に築き上げたアヴァターを、その上に被せて見てしまう。あばたもえくぼならまだいい方で、あばたの存在に気づきすらしないこともしばしばだ。驚くほどに、私たちは相手のことを見ていない。「三次元」の生身の人間は、結局のところ欲望を映し出すスクリーンでしかなく、私たちはいつでも、そこに投影した「二次元」の幻想と恋をするのである。学校、職場、趣味の集まり。いかなる場合でも人が集まりさえすればほとんどシステマティックに恋愛が発生するのは、恋愛において生身の人間がそれほど重要でないことの証左と言える。誰でもいいのだ、スクリーンでありさえすれば。
 だから私たちは、顔も名前も知らない相手とすら、恋に落ちることができる。メグ・ライアン主演の「You’ve Got Mail」はそういう内容の映画だった。もっと言えば平安時代の貴族たちにとって、恋愛というのは要するにそういうものだった。顔も知らない相手の和歌を交わして、夜闇に紛れて「通婚」をして、3回通ったら結婚成立。恋する相手が脳内に住んでいるのでなければ、そんなトチ狂った真似はできなかっただろう。
 そう。姿を見る必要はないのである。相手を愛おしく思うためには。
 たとえば、先月末の冬レプで買ってきたハイナントカゲモドキのぼたんの姿を、私はかれこれ10日間ほど目にしていない。
 少なくとも私の目のあるところでは、まったくウェットシェルターから出てこないからだ。
 餌となる冷凍コオロギを、ピンセットでそっとシェルターの入り口に差し出すと、一瞬、黒い鼻先が見えて、コオロギを奪い、シェルターの暗闇の中に消えていく。
 それが、ぼたんをケージに投入してから今までの間に、私が目にすることのできたぼたんのすべてである。
 燃えるような赤い目も、シックでモダンな体色も、一切私は見ていない。もちろん、たぶんシェルターの中で振っているであろう尻尾も。
 それでも、私がぼたんに対して感じている愛おしさは、減じることはない。
 ピンセットの先からコオロギが消える度に、身震いしそうなほどの幸福感に包まれている。
 シェルターの中で、おいしそうにコオロギを食んでいるであろうぼたんの姿を、頭の中で想像して補完しているからである。
 正確に言えば、その「想像上のぼたん」に心を震わせているからである。
 現物が見えなくたって関係ないのだ。
 いわゆる「ゲテモノ」カテゴリーの動物の中には、同じように隠蔽性の強いものが少なからず存在する。そういう生き物を飼育していると、「何が楽しいの?」とつっこまれることがしばしばある。けれども、あなたが一度でも恋愛をしたことがあるのならば、その楽しさは自ずと知れるはずなのである。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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