まどマギとスクールカースト。

      2016/03/18

 斎藤環さんの『承認をめぐる病』を読む。
 昨今の社会、とりわけ若者たちの間に蔓延する「承認依存」と「コミュ力偏重」の病理について書かれた本である。著者はひきこもりの治療を専門とする精神科医だ。
 本の中に、こんなことが書かれている。

 それでは、何が若者の「不幸」と「幸福」を分けているのか。
 おそらくそれは「仲間」の存在である。
 (中略)
 ひきこもりの臨床経験からいいうることは、多くの若者(に限らないが)は、たとえ経済的には不遇であっても、コミュニケーションと承認さえあれば、そこそこ幸福になれてしまう、という事実である。
 むしろ現代にあっては、幸福の条件としての「コミュニケーションと承認」の地位が高くなりすぎた。先に指摘した「コミュニケーション偏重主義」は、その原因でありまた帰結でもある。
 (中略)
 詳しく述べる余裕はないが、若者のコミュニケーションと「キャラ」とは、切っても切れない関係にある。
 (中略)
 「キャラ」とは、コミュニケーションの円滑化のために集団内で自動的に割り振られる仮想人格のことだ。「いじられキャラ」「おたくキャラ」「天然キャラ」など、必ずしも本人の自己認識とは一致しない場合もある。どんな「キャラ」と認識されるかで、その子の教室空間内での位置づけが決定するため、「キャラを演ずる」「キャラを変えない」という配慮が必要となる。
 (中略)
 「お前こうゆうキャラだろ」というメッセージを再帰的に確認し合うこと。それは情報量のきわめて乏しい「毛づくろい」にも似ているが、親密さを育み承認を交換する機会としては最も重要なコミュニケーションでもある。
 この種のコミュニケーションの快適さになれてしまった若者たちは、自らに与えられた「キャラ」の同一性を大切にする。成長や成熟を含むあらゆる「変化」は、「キャラ」を破壊し仲間との関係にも支障をきたしかねないため忌避されるようになる。

 この部分を読んで私が連想したのは、例によって「魔法少女まどか☆マギカ」だった。
 このアニメでは主要な登場人物たちが次々と死んでいくが、その「死因」が、「キャラ」からの逸脱であるように思えてならなかったからである。
 山川賢一さんによる作品の評論『成熟という檻』を参考にしながら順番に説明していく。
 1人目は巴マミである。
 主人公の鹿目まどかとその友人の美樹さやかが魔法少女になろうとする以前から、魔法少女として魔女と戦ってきた「先輩」として登場する彼女には、「指導者」、「リーダー」としての「キャラ」が付与されている。その「キャラ」に従い、彼女は、まどかやさやかがなるべく公正に判断を下せるように、「魔法少女とはどういうものか」について十分なレクチャーをしようと努める。孤独な戦いを続けてきたため、内心では仲間が欲しいと思っているのだが、その気持ちを抑え、いっときの感情で「後輩たち」が過酷な運命に身を投じることのないよう、冷静な判断を促すのである。「頼りになる先輩」として。
 しかし、まどかが魔法少女になるという決断をしたことで、その「キャラ」が崩れる。「頼りになる先輩」という「キャラ」がほころび、彼女は抑えていた内面を吐露してしまう。

 あこがれるほどのものじゃないわよ、わたし。無理してかっこつけてるだけで、こわくてもつらくても、だれにも相談できないし、一人ぼっちで泣いてばかり。いいものじゃないわよ、魔法少女なんて。

 そのすぐ後で、彼女は魔女との戦いに敗れて死ぬ。
 2人目は美樹さやかである。
 彼女には、密かに想いを寄せる上条恭介という幼馴染がいる。恭介はヴァイオリンの天才であるが、事故で腕を傷め、将来を絶望視されている。魔法少女になる契約を結べばなんでも願いがひとつ叶えられるため、さやかは恭介の腕を治すために、魔法少女になることを決意する。
 かように、彼女が魔法少女になった動機の大部分は利己的なものである。しかし彼女はそれを認めず、「巴マミの後を継いで正義のために戦う」という「キャラ」を自らに課す。その試みは途中までは首尾よく運ぶが、魔法少女はソウルジェムに魂を抜き取られたゾンビのごとき存在であることが判明した上、親友の仁美から、自分も恭介のことが好きだと告げられ、魔法少女となったほんとうの動機(恭介への思い)が叶わないことがわかると、次第に彼女は、「キャラ疲れ」していく。それが極限まで達したところで、彼女の魂は魔女と堕し、肉体は死ぬ。
 3人目の佐倉京子は、自己利益のために魔女と戦い、縄張りを横取りするために他の魔法少女を攻撃することも辞さない「悪役キャラ」として登場する。家族の幸せを願って魔法少女になったにも関わらず、そのことがかえって家族を破滅させてしまった過去を持つ彼女は、さやかとは逆に利他を捨て利己主義に徹しているのである。
 しかし、「正義キャラ」であるさやかと衝突するうちに、京子はかつて封印した利他的精神を取り戻していく。本稿の文脈に則して言いなおせば、「取り戻してしまう」。利他主義を取り戻した京子は、魔女オクタヴィアと化したさやかをもとに戻すための絶望的な戦いに挑むが、その過程で命を落とす。
 4人目は主人公である鹿目まどかだ。
 彼女は、本人も述懐するように、なんの取り柄もない「地味キャラ」である。気弱で、優柔不断で、うじうじしている。一度は魔法少女になって巴マミと共に戦おうとするものの、彼女の死に衝撃を受けて断念してしまうというように、「弱さ」を体現した存在である。作中ではいつまでも、魔法少女であるさやかや暁美ほむらに「助けられる」という立場にとどまっている(あるいはとどめられている)。
 そんな彼女が、内に秘めた正義の心を発露して魔法少女になることがこの物語のクライマックスであるわけだが、もちろん、「正義の味方になる」ことは、「地味キャラ」からの逸脱である。しかも、「スクールカースト」の概念から言えば、「キャラ」を媒介したコミュニケーションにおける、もっとも大きな「裏切り」となる。スクールカーストにおける最下層である「地味キャラ」がヒーローになってしまうことは、「キャラ」の序列化で成り立つ教室内の秩序そのものの崩壊だからだ。
 その結果まどかは、世界を救う代わりに、彼女によって救われた後の「新たな世界」の中にその居場所をまったく失う。魔法少女を救済する者として「世界の外側」に存在するものの、世界の内側では、家族の記憶からも、友人の記憶からも、その存在が抹消されるのである。
 5人目は暁美ほむらである。彼女は実は、TVシリーズの中では死ぬことがない。が、劇場版では魔女と化しており、最終的にはそれを越えた悪魔とでもいうべきものになってしまう。
 彼女は、最強の魔女である「ワルプルギスの夜」から「鹿目まどかを救う」ことを目的として魔法少女となった人物である。タイムワープをする能力を持ち、まどかが死なずにすむ未来を実現するために何度も時間を巻き戻している。その内面に溢れるのはまどかへの一途な思いであるわけだが、表面的には、目的のためには手段を選ばない「冷徹キャラ」を演じている。
 それにも関わらず、彼女は魔女オクタヴィアとの戦いで瀕死になった杏子の姿を見て動揺し、抑え込んでいた「まどかへの思い」という人間らしい感情を吐露してしまう。
 その結果、彼女は「ワルプルギスの夜」に敗れ、まどかの決意によってかろうじて死を免れるものの、今度は抑圧していた「思い」に囚われて魔女となり、悪魔となってしまうのだ。
 かようにして、「魔法少女まどか☆マギカ」では、魔法少女たちがあらかじめ付与された「キャラ」からの逸脱を契機にして次々と死んでいく。
 この構図は、「キャラ」から逸脱した者がいじめの対象となり、集団から排除される、「スクールカースト」の構造と相似的であるように私には思われる。
 生き延びるためには、「キャラ」という同一性を保持しなくてはならない。まどかが変わろうとするたびにほむらが執拗に邪魔に入るこの物語は、そのような若者の「気分」を如実に反映しているのではないだろうか。
 「まどマギ」がヒットした理由のひとつには、そのあたりのことがあるのではないかと私は思う。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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