インターネットによって、発信するためのハードルは本当に下がったのだろうか?

      2016/03/18

 インターネットの登場によって、情報を集めて発信することが、誰にでも容易にできるようになった。ブログやSNSといったシステムは、情報を発信するための手間を、さらに少ないものにしてくれている。
 だから、インターネットによって、情報を発信することへの参入障壁は下がった、と、一般的には判断されている。今まではプロの作家やジャーナリストにしかできなかった「メディア」の仕事が、誰にでもできるようになった、と。
 でも、本当にそうだろうかと、私は思う。
 インターネットの登場によって、誰でも情報発信するためのツールや機会を手にすることができるようになったというのは確かだけれど、そのツールや機会を「使いこなす」ためのハードルは、むしろ上がっているのではないかと考えられるからだ。
 インターネットが登場する前、情報空間はいくつかのセグメントに分割されていた。たとえば北海道に住んでいる人が琉球新報を読むことはそうそうなかったし、沖縄に住んでいる人が、北海道新聞を読むこともなかった。
 そのような時代においては、それぞれのセグメントにおいて「まったく同じ情報」を扱うことが可能だった。北海道新聞に先に書かれてしまった内容であっても、それを読むことのできない沖縄の人たちに向けて、琉球新報が書き直すことに意味があった。他の誰かが先に手を付けた情報であっても、それが別のセグメントに属する人であったならば、後追いで自分も手を付ける余地があったということだ。情報の先取権を争うライバルは、同じセグメントに属する相手に限られていた。
 けれども、インターネットの登場によって、そのセグメントはほとんど無効化されてしまった。今では、北海道の人が琉球新報のウェブ版を読むことも、沖縄の人が北海道新聞のウェブ版を読むこともできる。だから、北海道新聞に先に書かれてしまったことを、琉球新報が後追いで取り扱うことに、少なくともインターネット上では意味がなくなってしまった。琉球新報が書き直さずとも、直接北海道新聞を読みにいけばいいからだ。同じ内容を書くことは、二番煎じ、パクリとして、むしろ忌避されるべき行為となった。情報発信者は、全世界の相手と、少なくとも、同じ言語で発信をしているすべての相手と、情報の先取権を争わなくてはいけなくなったのだ。
 自分が書きたいと思っていたことでも、世界中の誰か1人に先に書かれしまえば、もう書く意味がなくなってしまう。情報空間がセグメント化していた時代には、それぞれのセグメントの中で「自分にしか書けないこと」を書いていれば、他に同じことを書いている人間がいても構わなかったが、インターネットの時代には、「世界中でただ1人自分にしか言えないこと」を言わなければいけなくなった。そういうネタを持っている人間にとっては有利な時代になったけれど、「その他大勢」にとっては、ハードルが下がったとはとても言えないのではないだろうか。むしろ、「そういうネタ」を持っている人間は、インターネットがなかったとしてもいずれ誰かの目にとまることになったはずで、とすれば情報発信のためのハードルは、実質的には今も昔も変わっていないのではないかと思われる。
 情報発信とは、メディアの様態によらず、困難なものなのだ。
 インターネット上においては、「誰かがもうすでに言ってしまったこと」を繰り返すのは、基本的には無意味なことだ。場合によっては、ただの愚痴に過ぎなかったりする。そのような「無意味なこと」を言ってはいけないとは思わないけれど(そんなこと言ったらこのブログ自体が崩壊する)、「無意味である」ことの自覚くらいは持っておいたほうがいい、と私は思う。
 

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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