まどマギにみる葬式仏教が必要な理由。

      2016/03/18

 RADWIMPSの「有心論」という曲がある。

 死別した恋人へ向けた鎮魂歌である。

2秒前までの自殺志願者を君は永久幸福論者に変えたくれた
そんな君はもういないけど
この心臓に君がいるんだよ 全身に向け脈を打つんだよ

 僕は君のことを覚えているから安心して逝けと歌っている。
 死者に向けてこのようなメッセージを送るのは人間の基本的な性質である。
 ネアンデルタール人にも葬送の文化があったことをご存知の方は多いだろう。時間どころか種も越えて、私たちは死者を弔う文化を持ち続けてきた。
 死者は適切に弔わなければ、蘇って生者に害をなすという信憑は、すべての社会集団に共通のものであると、思想家の内田樹さんは言う。
 だから私たちは、死者を弔う。太宰府天満宮に菅原道真が祀られているのも、靖国神社に戦没者が祀られているのも同じ理由である(東条英機を祀るべきだとは思わないが、彼はないがしろにされたら化けて出そうな気はする)。
 その時、もっとも基本的なマナーとなるのが、「あたかも、死者がまだ生きているかのように振る舞う」ことだ。
 喪に服しているとき私たちは、「死にそうな病人が家にいる」ときにとるべき振る舞いと同じような振る舞いをする。
 仏前に食物を備えるのも、死者を生者として扱うことのひとつである。
 そしてもうひとつのマナーは、そこから派生して、「あなたを忘れない」と死者に語ることだ。
 年に1度、死者が家に帰ってくるという風習を通じて、日本人は、「死者を忘れない」ように心がけている。
 野田洋次郎くんが歌っている内容も、基本的にはこれらのマナーに連なるものである。
 私たちは、本能的に、死者を弔わずにはいられない。
 しかし、彼のように(あるいはその他のJ-POP歌手のように)、個人的な愛情のもとに弔いを完結させることは、実は危険を孕んでいる。
 「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」(長い)において、登場人物の一人である暁美ほむらは、魔法少女が堕落した成れの果てである魔女をさらに踏み越えて、悪魔とでも呼ぶべき存在に変容してしまう。
 その理由は、彼女が、主人公である鹿目まどかを愛していたからである。
 まどマギのアニメシリーズは、「魔法少女が犠牲になることのない世界」の秩序を打ち立てるために、まどかが犠牲になって終了する。新たな世界ではほとんどすべての人々の記憶から、まどかの存在は消えている。
 生きている人間の中ではただ一人、まどかの記憶を有していたほむらは、自らを犠牲にして世界を救ったにも関わらず存在を抹消され孤独のうちにおかれたまどかを不憫に思い、そのような世界を恨むようになる。その結果、まどかが作ったものであるにも関わらずその世界の改変を企む悪魔となってしまうのである。
 ここに、弔いを私的な関係性のもとで遂行することの危険がある。
 「私だけが死者を覚えている」ことは、生者の心を侵食するのだ。
 ほとんどの社会集団において、僧侶が、宗教のもとに死者の葬儀を行なう理由は、ここにあるだろうと私は思っている。
 宗教は、私的な関係性から死者を解放し、記憶の保持を代行することで、生者が悪魔になることを防いでいるのである。
 葬式仏教などと、現在の寺の有り様を批判する人もいるけれども、それだけでも十分意義のあることだろ、と私は思う。
 感謝するべきだし、葬儀は宗教に任せるべきだ。
 悪魔になりたくないのなら。
 ところでまどマギの映画は、共和党支持者あたりに観せたら怒られるかもしれないですネ。
 あなたがイエスを知っているのは、悪魔によって世界が改変されたからかもしれませんよ、ヌルフフフフフフ。
 みたいなことだもの。

1986年生まれ。幼少期より生き物と戯れて育つ。2011年、東京農工大学農学部獣医学科卒業。同年より小動物臨床に従事。在学中から、WordPressを利用してブログを書き始める。ニシアフリカトカゲモドキと出会った2014年に内容を一新、爬虫類ブログ「とかげもどきのしっぽ。」を立ち上げ、現在に至る。ニシアフリカトカゲモドキをはじめ、多くの爬虫類と暮らしている。

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